-分かっていますか?何が問題なのか- ㊾高齢橋梁の性能と健全度推移について(その6) ‐将来に残すべき著名橋になすべきことは‐
これでよいのか専門技術者
(一般財団法人)首都高速道路技術センター
上席研究員
髙木 千太郎 氏
3.荘厳な高欄のある神宮橋の歴史と景観
最後に、青山六丁目から明治神宮の境内・南参道鳥居に至る南参道の入り口に架かる跨線橋・神宮橋について説明しよう。今回の締めに神宮橋を取り上げたのは、年号『令和』に替わること、昭和天皇の『大喪の礼』について述べたこと、『武蔵野陵』の入り口に架かる『南浅川橋』について説明したことからである。明治天皇を祀った明治神宮を意識して建設された、何となく皇室の匂いがし、多くの人が愛着を感じているであろうと考えたからである。写真-17に示す現在の神宮橋は、二代目なのだ。初代の神宮橋(写真-18参照)は、1921年(大正10年)9月に鉄道を跨ぐ構造で架けられた2径間連続の橋長19.39m(64尺)、幅員29.09m(96尺)鉄筋コンクリート橋である。
正しくは、鉄骨コンクリート橋と言うのが適当である。本橋を建設した理由は、先に説明した『南浅川橋』と縁と言っては可笑しいが、皇室に関係する明治神宮建設にある。明治神宮は、明治天皇が崩御し、京都の伏見桃山陵に葬られたが、東京に神宮を建設したいとの住民運動が起こった。
そこで、清水建設㈱のくだりで話した、実業家『渋沢栄一』、東京市長『阪谷芳郎』といった有力者による有志委員会が組織され、代々木御料地に神宮を建設する建設案が立てられたとのことである。神宮橋の建設にあたっては、永久構造物として架けられ、鉄道を跨ぐことから、桁下制限や建設工事を可能な限り簡素化することが条件となっていた。通常道路橋を計画する場合、橋上と側面を意識して外観を考えるのが常道である。神宮橋の場合は、側面から見るよりも主として橋上を通る人に重きをおいて設計されている。このような理由から、橋上の荘厳な装飾に比して橋台に続く袖の部分は貧弱な?外観となっている。初代の神宮橋は、欄干ではなく、樹木を上部に植えた石張りの土手造り(架け替えた現在の袖高欄部分とほぼ同じ)として桁下が見えないような配慮がなされていた。この理由は、明治神宮の参詣者が橋を通って神宮に入る感を持つことのないように考えた結果との事だ。参拝者が、参道に入って神宮の気分になっている橋上で、鉄道・鉄路を見渡すと面白くないであろうとの、特段の配慮した結果と聞いている。確かに、現在の親柱やそれを繋ぐ壁は当時の外観を残してはいるが、多少違っている。当初の神宮橋の橋台は、高さ6.36m(21尺)、上幅1.06m(3尺5寸)、下幅2.73m(9尺)のコンクリート造りで、割り栗石を敷き詰めた直接基礎であった。橋台を無筋構造としたのは、鉄筋の組み立てや複雑な型枠に多くの時間を要することを考え、わざわざ無筋構造としている。しかし、橋の中間に位置する橋脚は、高さが15.94m(19尺6寸)、幅は0.61m(2尺)、厚さ0.46m(1尺5寸)の鉄骨コンクリート造りで、山形鋼を4本使っている。当時珍しかった2径間連続鉄筋コンクリート上部工(山形鋼を使った鉄骨コンクリート橋であるが、資料には鉄筋コンクリートとなっている)の説明をしよう。
桁高は、0.61m(2尺)で1.56m(5尺1寸5分)間隔で並べ、先の橋台と同様に施工時間と狭隘な桁下空間での施工に配慮し、通常の鉄筋(丸鋼、異形棒鋼)を使わず、山形鋼を使い床部にセルフセンタリングを使用している。このような施工上の配慮を行って結果、通常、型枠と桁下(建築限界の上端)余裕高として0.61m(2尺)が必要なところ、半分の0.31m(1尺)に納まっている。資料をよく見ると、コンクリートと鉄骨の付着力を良好に保つために、山形鋼と平鋼を組み合わせ、上部桁を築造する設計はさすが専門技術者である。今も昔も、設計者の工夫があるからこそ、施工条件を十分に考えた美しく、耐久性に優れた構造物が出来上がるのだ。間違えないように言っておく、設計規則や施工規則を守れば良い構造物ができるのではない。技術者の技術力が、こんなところにも活きることを理解してほしい。
さて、架け替えた神宮橋にも再現された高欄廻りについて説明しよう。土手の高さは内側で1.36m(4尺5寸)、外側が1.67m(5尺5寸)で、その上部に1.58m(1尺9寸)の花こう岩の王垣造りであった。先にも説明したが、王垣の下部には小松が植えられ、高欄が人の目の高さ以上であったことから、桁下を通過する鉄道は蒸気機関車の煙以外は見る事が出来ないように配慮されていた。硬い石と気分が和らぐ緑、設計者の神宮橋デザインの意図が何となく分かるような気がする。四隅には燈籠を思わせる親柱(先の写真を再度見てほしい)、総高さ4.70m(15尺5寸)、柱は1.36m(4尺5寸)、角笠は四方が1.82m(6尺)の総石造りである。橋名板は、明治神宮に向かって右側が漢字の『神宮橋』、左側が平仮名の『じんぐうばし』となっていた。橋名板の揮毫は、後藤新平の前、第6代東京市長の田尻稲次郎(経済学者・慶応義塾大学)であった。このような工夫をして永久橋として建設された初代の神宮橋も、東京オリンピック開催で国立代々木競技場(丹下健三設計、競技場内部柱を持たない珍しい吊構造形式の建造物)整備に合わせるように五輪橋が隣接するように建設された。
神宮橋は、表参道の設計上の考え方から、起終点に広場があったので架け替え用地として使え、通行規制も可能であったことなどの理由から、1982年(昭和57年)9月に現在の橋に架け替えられた。架け替えられた神宮橋は、路上の空間は初代神宮橋の外観を保つように配慮し、可能な限り初代神宮橋に使われていた石材を磨き直し親柱や高欄に使っている。また、上部構造は、単径間のプレストレストコンクリート桁に変更し、中間に位置した橋脚は撤去した。今回の連載、導入編で記述した『南浅川橋』架け替え工事の請負会社である有限会社清水組の相談役、そして話の締め、『神宮橋』の関係する明治神宮設立の有志、そして新1万円札表面の肖像となる『渋沢栄一』が今回のキーワードかもしれない。私は全く知らなかったが、『渋沢栄一』は「日本資本主義の父」「近代日本経済の父」と呼ばれている。
今や時の人となった『渋沢栄一』の歴史を振り返って調べると、現場に出て自らの手で変革を進める姿、新たなビジネスチャンスを見出す姿、ずば抜けたビジネスセンスを持つ姿など、知れば知るほど素晴らしい偉人であることが理解できる。私も是非『渋沢栄一』を学びたい、『渋沢栄一』の爪の垢でも煎じて飲んで、明日の日本に役立ちたいものだ。
(次回は2019年6月1日に掲載予定です)