第90回 「プレーヤー」と「プロ」、「インハウスエンジニア」
民間と行政、双方の間から見えるもの
植野インフラマネジメントオフィス 代表
一般社団法人国際建造物保全技術協会 理事長
植野 芳彦 氏
1.はじめに
いつも、このくらいの季節になると思い出すのだが、自分も67歳になる。うちの父親は57歳、現役で亡くなった。もう、その年齢から10年も過ぎている。父親は最終が栃木県の職員であった。農業系の技術職で当時は農薬を担当していた。今はほとんど実施されていないが、水田にヘリコプターで農薬を散布する「航空散布」と言うのがあり、この時期になると毎回立ち会っていた。父が亡くなった時に県庁内が、ざわついた。「急性骨髄性白血病」と言う診断であり、私も、県の方から、最近の健康状態や、体調の様子に関しての事情を聞かれた。父の精神を考えると、体に悪い仕事であったことは自分でも分かっていたはずであり、あえて、訴訟は起こさなかった。航空散布は、現在はほとんど実施されていない。そばで管理している人間にも悪い影響があり、第三者にも悪いことは父自身が言っていた。とくに、朝行うので、通学中の小中学生などは無防備である。
なので、我が家では、殺虫剤は蚊取りくらいしか使わない。除草剤なんてとんでもないが、隣、近所でも近くの農家でも、工場でもやたら除草剤をまいている。これって本当に大丈夫なの? 農家は畑に害虫対策の農薬もまいている。私は環境活動家ではないので、他人のやっていることは仕方がないと思っているが、間違いなく環境破壊である。人体にも良くないと思われる。都合の悪い人たちが言わないだけである。
その代わり、我が家は、草が伸び放題であるが、見てくれは、かまわない。これも、近所の人が「除草剤撒けば」とアドバイスをくれるが、大きなお世話である。昔からの井戸もあるので、極力土壌を汚染させたくない。普段井戸の水は庭の水まきや洗車などに使うようにしている。今回は、「プレーヤー」と「プロ」、「インハウスエンジニア」に関して書いてみる。
2.プレーヤー
前回「マネージャーとスペシャリスト」に関して書いたが、実は世の中で一番多い存在は、プレーヤーとアマチュアである。プレーヤーは、実際に仕事をしている普通+αの方々、アマチュアは、協力もしくは批判してくれる一般の方々。ここで批判してくれると書くのは批判してもらうのも重要だからである。私は、物事に批判や反対は、あって当たり前と考えている。プロとしては、批判にめげずに先に進めた結果、先に目標が見えてくる場合が多い。よく「100%同意」と言う方々がいるが、100%同意する世界と言うのは逆に恐ろしい。独裁政治である。実際にやったことのない人たちの理想論である。
プレーヤーは、「実行する人」だ。多くの方々がこれに当たる。マネージャーやスペシャリストになっていく前の状態ともいえる。プレーヤーは実際の仕事を実行しながら、マネジメントを目指すのかスペシャリストを目指すのか? ということになる。
プレーヤーの時期と言うのは、ヒトやその所属する組織によって違うが、どんなに優秀な人間でも、3年から10年はかかると思う。その間に、さまざまな学びと経験を積む必要がある。これはヒトによって千差万別であろう。しかし、古い考えかもしれないが、下積みは必要である。いきなり、マネージャーやスペシャリストとして、活動できるわけでもないが、そうではない場合は注意が必要である。なにか、大きなミスをやらかすことになる。また、一生、プレーヤーのままと言うこともあり得る。最近は自ら望みその道を行く人もいる。
プレーヤーからスペシャリストへと言うのが、順当で目指すと思うが、本当はスペシャリストになるには、大変である。多くのことを知り経験しなければならない。この辺が現在の社会はおかしい。やはり、それなりの経験を積んでないと、スペシャリストとして安心して意見を聞けない。ここで問題になるのが、学識者との違いである。学識者もスペシャリストと言われることも多いが、本来は少々違うと考える。
我々の世界、土木の世界も維持管理の世界では、経験が重要である。現場を這いずり回り、頭をぶつけたり多少危険なことも経験しながら、学び取って行くべきである。プレーヤーと言えども、業務に関しては、プロであり、課題解決と言う義務と責任を果たさなければならないことはもちろんである。
ここで自分自身を考えてみると、やはり、最初は、スペシャリストを目指して、様々なことに挑戦した。世の中で「橋梁のスペシャリスト」と仮に言われるためには、設計だけではだめで、制作、架設、検査、維持管理までと、基準類に関する知識、様々な解析手法や、かなり実務的なことまでを知識や経験として持っていないとスペシャリストではないと考えている。まさに、大谷の2刀流がそうであり、「野球」という事柄に関して、投打ともに優れている。これがスペシャリストである。なので我々の世界では、少なくとも設計、施工、維持管理とが理解できていないとスペシャリストではない。そのくらい難しいものだと私は考えている。
ただここでも、「設計のスペシャリスト」「施工のスペシャリスト」「維持管理のスペシャリスト」「材料のスペシャリスト」と言う方々もいる。各分野のマイスターと言ったほうが良い方々もいる。プレーヤーは数多くいるがスペシャリストは希少である。今、真のスペシャリストの力が必要なわけではあるが、プレーヤーですらない、アマチュアがわかったようなことを言い、混乱を招くことがある。これは、まずい状況である。いかにも正義であり正しいようなことを、妙な自信から言い出す人たち。役所のやっていることを状況もわからずに批判する方々。
最近はインターネットやSNSの発達により、簡単に情報が得られる。これによって自分で経験もしておらず理解もできていない事柄に関し、さも分かったようなことを言い出す。自分の意見として確立し発言するのは構わないが批判するのはいかがなものだろうか?
3.プロ = 専門家
プロには責任が伴う。さらに使命感も必要だ。最近、様々な事項を1つの業務に入れなければならない。これを采配するのはマネジャーの仕事だが、1人ですべてができるはずはない。この辺をわきまえられているのかが、プロの素養だろう。最近はめっきり、プロが減った。責任感が無い。なぜ自分の会社に、仕事が来ているのかわかっていない人たちがいる。もっとも発注している方の意識もそうだ。何のために仕事を発注しているのか?
ここで、よくある大きな間違いの第一が、仕事というものは、特殊なもの以外、ほとんどの場合が企業に出している。個人に出しているわけではない。組織として責任を取らなければならないのだが、それができない企業がいつのころからか増えてしまった。発注者は、発注した仕事の目的が果たされなければ、お金を払う必要はない(極端なはなし)。要求した業務が全うできなければ、減額されても仕方がないと私は思う。
お金は市民から出ているということを考えなければならない。変なことを考えないで、必要なものは必要だと堂々と言い、要らないものはいらない。使えないものは使わない。こういう心構えが重要である。
ましてや、アマチュアが口を出してきても、何の変化もない。意外と、クレーム等に弱いのが役所であるが、内容は真摯に聞く必要があるが、専門的な問題に関しては専門家が対処すべき事項である。この辺は過剰に気に掛ける必要はない。
「学識者」と言うのもある。学識者とは大きな括りで、私自身も学識者として意見を求められることも多いが、私の本心は学識者と実務家とは分けて考えたほうがこれからの世の中は良いのではないだろうか?学識者にも実務家にも、それぞれ専門が有る。それをごっちゃにしてしまうのが日本人の、悪い点である。材料の専門家に橋梁全体の話を聞いても仕方がない。
基本的に社会資本の業務発注は、プロに出すのが当たり前である。価格だけの問題ではない。安かろう悪かろうでは、逆に税金の無駄遣いになる。きちんと業務をこなせるプロに出すことが重要である。ここで難しいのが、プロの判断である。業務仕様書には、しっかりと「要件」を書くべきである。実は、10年前に富山に赴任したときに、びっくりしたのは発注の仕様書に、要件が明確でなかった、資格要件なんかも、ない状態だったのでこれはすぐに直させたら、ハレーションが起きた。地元には都合が悪かったのだ。しかし、それは、甘えでしかない。あとは、その企業と技術者の実績である。これもないがしろにしていたのではそのうち事故を起こす。無資格者に、仕事をやらせるリスクは、発注者がとらなければならない。しかし、最近の日本を見ていると、やたら資格ができている。いわゆる点検の「みなし資格」などは350以上認定されている。本当に大丈夫なのだろうか?きちんとしている組織の資格もあるがこれだけあると、よくわからなくなってしまう。
欧米では、PEがあっての上での点検資格である。基本はPEなのである。PEは日本の技術士に当たる、海外に行っても一応PEであれば認められる。(まあ、この辺も厳密にはいろいろできている)資格をビジネスにしている団体が多すぎる。
この資格に関しても、やはり賢いのは、医師と弁護士である。自分たちの資格をしっかり確立している。これは日本医師会や日本弁護士会が賢いのだと思う。技術士会は、仕組みの運用などの仕組みづくりが、下手なのではないだろうか? せっかく苦労しても、報われなければ価値はない。日本と言う国は、安易に資格を作りすぎている傾向があると考える。これでは民間の方々も大変である。やたら資格を取得しなければならない。
そしてCPDや更新に費用と時間を取られる。そんなことよりも、実際の経験を積み実績をつけることと、専門性を活かして考えることの方が重要であると思うのだが。