-分かっていますか?何が問題なのか- 第64回 道路下の空洞を調べるレーダー探査 ‐モグラの目を持つ探査技術の検証ポイント‐
これでよいのか専門技術者
(一般財団法人)首都高速道路技術センター
上席研究員
髙木 千太郎 氏
4.おわりに
今回の連載最後に、今年10月に亡くなられた川田忠樹氏に関して、私の思いを加えて、偉業について少し述べて連載の締めとしよう。
橋梁の製作・架設会社のトップメーカー川田工業株式会社の社長・会長を務めた川田忠樹氏が10月24日に亡くなられた。川田忠樹氏は、東京外国語大学仏語学科を卒業後、全くの異分野である東京大学工学部橋梁研究室に4年間在籍され、平井教授の基で博士号を取得された異色の経営者である。
私が川田忠樹氏と接したのは、私がまだまだ若造で橋梁技術に関する知識も経験も薄い丸の内の本庁に移った時代である。私の恩師である鈴木俊男技監室の秘書の前でお会いしたのが始まりである。鈴木技監の勧めもあり、川田忠樹氏が『吊橋の設計と施工』1965年や『長径間吊橋の理論と計算』1969年執筆した書籍に接した当時は、執筆されている内容読み、川田忠樹氏は大学の橋梁部門の著名な教育者、研究者であるとばかり勘違いしていた。ところが、橋梁の製作・架設工事業務の発注に携わり始めた1980年代、川田忠樹氏が川田工業株式会社の代表取締役社長であること知った。川田工業株式会社は、その当時の橋梁主要メーカである横河橋梁、宮地鉄工、日本鋼管などとは異なり、准一流会社のイメージが私には強かった。
ところが、本四架橋における自社開発のヘリコプターを使ったケーブル架設には驚くと同時に、技術に裏付けられた世界に向けたチャレンジ精神には感嘆し、本州連絡橋公団の保田氏に詳細な資料の送付を依頼するほどであった。また、川田忠樹氏が、年間100万トンを超える受注高を誇っていた我が国の橋梁製作・架設会社数について、近い将来、現在の「四分の一以下となる」と予測し、発言している。その時の川田忠樹氏の読みが的中し、今現在の国内の橋梁・製作会社数30数社、受注高20万トンに合致し、将来の読みの深さに私は感銘を受けてもいる。
並々ならぬ川田忠樹氏の橋梁に対する熱意と愛情に触れる
川田忠樹氏が亡くなられたことは、『我が国橋梁界の巨星墜つ』に通ず
特に、私の住まいが以前東京杉並・善福寺(今は、中野である)であり、川田忠樹氏の住まいが隣の駅、吉祥寺でもあることから、親しく会話が出来るようになった以降、何となく親近感が湧き、お教えを請いに行きたいと常々思っていた。そのうち、『だれがタコマを墜としたか』1975年、『歴史の中の橋とロマン』1985年あたりから並々ならぬ川田忠樹氏の橋梁に対する熱意と愛情に触れることになった。
川田忠樹氏の思入れが深いプレビーム合成桁の基準作りを扱うプレビーム振興会では、私も基準づくりに加わらせていただき、何度か親しく、お話をお聞きする場面が増えていった。私の個人的な感覚では、仏語科出身だけあって、立ち振る舞いや言動が何とも言えず、姿格好が特に素晴らしかった。私が昔、憧れの橋梁技術者でその名も高き、確かフランスに留学していた首都高速道路公団の沼田昌一郎氏にも共通する何とも言えぬダンディズムが、川田忠樹氏にもある。写真‐2は、在りし日の川田忠樹氏が旭日中綬章を受賞され、日本建設業協会で祝賀会が模様された時の姿である。右端の川田忠樹氏、左端のにこやかな奥様、そして中央が公明党の石井議員である。
写真‐2 川田忠樹氏:旭日中綬章-受章祝賀会
川田忠樹さんの素晴らしいところは、何にでも一生懸命に取り組み、逆境にもめげない強さは、高強度張力鋼のようなしなやかさと柔軟な対応能力にあると私は今でも思っている。
川田工業の100年式典でお会いした時は、コロナ感染拡大の3年前とは違って何時もの張りのある声では無かったのが気にはかかったが、にこやかな奥様と座られている椅子の横で、私は中腰でお話をお聞きした時が最後になるとは思いもよらなかった。川田忠樹氏が亡くなられたことは、『我が国橋梁界の巨星墜つ』に通じ、華やかであった我が国の橋梁業界の現状を映し出す。私としては、川田忠樹氏、川田さんにまだまだ長生きしていただき、現代の若者に川田さん特有の考え方、橋梁に対する熱意を語ってもらいたかったし、私も何度でも聞きたかった。(次回は2023年3月1日に掲載予定です)