-分かっていますか?何が問題なのか- 第64回 道路下の空洞を調べるレーダー探査 ‐モグラの目を持つ探査技術の検証ポイント‐
これでよいのか専門技術者
(一般財団法人)首都高速道路技術センター
上席研究員
髙木 千太郎 氏
1.はじめに
今回の連載記事を執筆するにあたって私は、何を導入部分に使うかで迷いに迷った。何時も連載の導入に使っている落橋事故はあり、報道もされている。前回掲載した崩落事故の詳細を話題提供として以降、道路橋の大きな崩落事故は2件(木製トラスのTretten Bridge:Norway Tretten、木製床版吊橋のJulto Pul:India Morbi)発生している。ところが今回の私は、全く気が進まず、2件の崩落事故については説明する必要性が薄いと判断し、話題提供から外した。その理由は、2橋の崩落事故の原因や崩落した橋梁の構造を詳細に確認したところ、私が説明するまでもない崩落原因であったからである。2橋の崩落事故の詳細を知りたい読者の方は、先に示した橋梁名からインターネット検索をしてほしい。Julto Pulについては、崩落の動画もあるので、それなりに、技術的に興味深い。
そこで今回の私は、これまで連載で取り上げたことが無い、読者の方々が興味を抱くか分からない分野から話題提供を選択している。導入として使う話題提供は、私自身が絡んだ、腹だたしく、当時を思い返すのも嫌な話しである。なぜ嫌な話をするのかと言えば、話す気になった切っ掛けもあるが、行政技術者にとって反省すべき重要な内容を含んでいるからである。今回の連載導入は、技術者として情報の発信、収集、そして尊厳と名声を示す代表的なツールであった土木系月刊誌の話である。私がなぜ今回、過去に事例の無い土木系月刊誌を取り上げた理由は、発刊から約100年間出版し続けてきた『土木技術(理工図書株式会社)』が今年の12月号を最後に休刊するとの情報が耳に入ったからである。
土木系月刊誌(厳密に言うと月刊ではない雑誌もあるが、定期発刊している雑誌を含む)には、休刊が決まった『土木技術』、『土木施工』、『基礎工』、『橋梁と基礎』、『舗装』、『日経コンストラクション』、そして土木学会、コンクリート工学会、プレストレスト工学会、地盤工学会などの学会誌、日本道路協会の『道路』、全日本建設技術協会の『建設』、日本鋼構造協会、日本橋梁・鋼構造物塗装技術協会などの協会誌がある。
私が土木系月刊誌に触れたのは、学生時代に入会していた土木学会・学会誌から始まり、社会人になると半強制的に入らされた全日本建設技術協会の『建設』、日本道路協会の『道路』があり、いずれも職場の個人宛に送付され、年に支払う購読料も結構な額となっていた。学生時代は、読んだか読まなかったかはすっかり忘れてしまったが、社会人となって一桁の時代は、毎月送られてくる雑誌の表紙は見るが、中身を読むことも無かった。それではどうしていたのかと言えば、各雑誌の編集委員から、「技術習得の書籍を何と思っているのか!」と𠮟られそうだが私は、ディスクの右側に山積みとし、もっぱら昼寝の枕として使っていた。
当時の職場には、今は廃刊となった『橋梁』を含む、先に示した土木系月刊誌全てが揃えてあり、先輩や上司から「おい、髙木君。昼休みの昼寝よりも、自らの技術を磨くのに役立つ、技術情報誌を読んだ方が良いぞ! 最新の技術や材料、今話題となっているプロジェクトの情報を数多く知ることで日々の業務に役立つことが山ほどある。髙木君、私が言うことが分かるかな~、昼休み寝てばかりいないで、偶にはマガジンラック(写真‐1参照)にある雑誌を読みなさい!」と嫌味を言われることがしばしばあった。上司や先輩の私に対する評価は、「最新技術に対する修得意欲が低い、彼は、平凡で目立たない行政人として終わるであろう」であったと思う。そう思われていた私個人の持論としては、今でも昼寝は英気を養い、業務遂行の活力を生むために役立つ必須のルーティンであると考えているので、昼休みには音楽を聴きながら昼寝を楽しんでいる。
専門誌から最新テクノロジーや知識を吸収
『羨ましいな~、あんな存在になりたいな~』が現実になった時のうれしさ
私が今でも昼休みのルーティンとなっている昼寝を削って土木系雑誌を読み漁っていたならば、ひょっとしたら私は、世界的に著名な専門技術者となっていたかもしれない。私自身の仮定の話、それはそれとして、読者の方々に私がルーティンとしている昼寝が有益か、無駄かについてご意見を是非聞きたいと思う。私の願いをお聞きいただける方は、道路構造物ジャーナルNET(サイトの右上、問い合わせをクリック)し、昼寝に関する貴方の意見を寄せて頂きたい。ここらで、読者が期待している私が関わった土木系月刊誌に話を戻すとしよう。
私に期待をしていた??ある上司からは、「ここのマガジンラックに揃えてある雑誌に髙木君の投稿した原稿が掲載されたり、君個人の記事が載ったりするのを私は首を長くして待っているよ」と言われることもあった。
写真‐1 マガジンラック:土木系雑誌
その後、私の人生、社会人として中堅の領域に入ると、数多くの月刊誌を読むことが私にとっては、最新のテクノロジーや材料に関する知識を吸収するだけではなく、国内外の土木系技術の動向を調べるための重要な情報源となっていった。それでは私がどんな時に月刊誌を読んだかというと、自宅に持ち帰って土日の夕方に読んだり、何となく考える力が失われた気がした時(アイディアが浮かばない時)に読んだり、である。私の経験談としてその当時を思い返すと、著名な土木系月刊誌に記事として取り上げられ、所属先と氏名が掲載された技術者は皆、職場内でも一目置かれる存在となり、掲載された本人に対する周囲の見る目や上司の対応も違ってきていた。
土木系月刊誌のハードルは高く、特に査読のある雑誌に掲載されると高レベル技術者として職場内や著名な上司から認識され、職場内で技術談議が始まると当人に意見を聞く回数が増えていたような記憶がある。私個人として土木系雑誌に氏名が乗った時期は何時であったか忘れてしまったが、その時の『羨ましいな~、あんな存在になりたいな~』が現実になったとの思いを忘れることは出来ない。最初に土木系月刊誌に掲載された時の話をしよう。私宛に橋梁の点検について出版社から取材依頼があり、担当の記者が来て取材対応、それが記事となった時は、言いようもない喜びに満ち溢れた。恥ずかしい話であるが、担当記者に私の顔写真と記事が掲載された雑誌を複数冊送ってもらい、自宅へ持ち帰って両親に見せ、自慢した記憶が昨日のようである。今でも私の自宅書棚には、当時自慢した雑誌が2冊飾ってある。
専門誌の立て直しを託される
ところが、あれほど注目度が高かった土木系月刊誌に対し、関係する社会の風向きが変わっていった。私が社会人となった昭和から平成へと時代は進み、年号が平成に変わった頃から土木系雑誌の発刊数は、道路橋の建設数と同様に急速な右肩下がりと推移していく。月刊誌の購読者数や書籍販売の減少から、月刊誌を発刊していた多くの出版社は厳しい経営状況に陥り、止むを得なく廃刊を余儀なく選択せざるを得ない状態となっていった。その頃、土木系雑誌や書籍を発刊していた著名な出版社が倒産し、私が依頼(図‐1参照、この依頼は『橋梁と基礎』の原稿依頼文書であり、当該誌のでは無い)を受け、2か月を要して執筆した原稿も陽の目も見ずに海の藻屑のように消えてなくなり落胆していた時、突然、私宛に電話が入った。
図‐1 執筆依頼文書:土木系月刊誌
その電話は、会ったことも無い、全く見知らぬ人からである。その電話は、「髙木さんですか、突然の電話で申し訳ありません。私は、A出版社のSと申しますが、当社の月刊誌に関してお願いがありますので、お時間を取っていただけませんか」であった。A出版社が発刊している月刊誌は、土木系雑誌の中において品位が高く、古くから著名な技術者や研究者が記事や論説を書いており、私個人も自らの知識向上や情報取得手段として何度も活用させていただいていた。このようなことから、私としては、A出版社が発刊している月刊誌への原稿依頼であると早とちりし、当然、訪問を快諾した。電話を受けて1週間後、勘違いしていた私と私を訪問したS氏との話が始まった。名刺交換が終わるや否やS氏は、「髙木様、私どもが定期発刊しているD誌をご存知でしょうか?D誌について私は、土木分野における先端技術や材料、施工事例などを掲載する専門誌として高い評価を受けていると自負しています。本日お持ちしたD誌ですが、現在、定期購読者数の減少と書店での販売の落ち込みが顕著となり、D誌発刊責任者として非常に困っています。そこで、当該分野において第一人者(誉め言葉もここまでくると凄い)である髙木様に、D誌の今後について是非ご支援いただきたいとの目的で本日お伺いしました」との話しであった。
確かに、先に話した著名な月刊誌を発刊している出版社の倒産からも、同様な書籍を発刊している多くの国内出版社が窮状に追い込まれていることは薄々感じてはいたが、まさか専門誌出版で著名なA出版社から私に助けを請いに来るとは思いもよらなかった。私の頭の中は、「私に対する関係者間の評価も随分と上がったものだ。S氏が誰に紹介を受けたか分からないが・・・・・、しかし、私にあの著名なD誌の打開策について依頼が来るとは」と、2者択一、どうするべきか冷静な判断が出来ない状態が暫し続いた。
編集委員の総入れ替え、内容の刷新を断行
しかし、3年後に最悪の結末が……
S氏の話を30分ほど聞いた頃、S氏の私に対する依頼がどの程度であるかを確かめることとした。私は、「D誌の現状については分かりましたが、D誌に関する全てをお任せいただけるのでしょうか?例えば、表紙のデザインから、掲載の方針や内容、編集委員員の構成まで変更するかもしれませんがそれでも良いのですか? 種々な取り組みをした結果、最悪、廃刊となっても良いのですね」と畳み込むようにS氏に質問した。
S氏の返答は、「髙木様、結構です。全てをお任せし、お願いする強い意志で私はお伺いしたわけですから、初対面で信用頂けるか分かりませんが髙木様が話されたお考えに従います。可能であれば、髙木様に編集委員会の委員長をお引き受け頂いても結構ですし、廃刊が望ましいとの結論が出たとしても止む無しです。髙木様、お忙しい中、申しわけありませんが何とかお願いします」であった。その場でS氏には回答せず、「D誌について、A出版社としての依頼内容については、理解しました。また、貴方が私に対して高い評価をしていただいていることは私自身光栄に思います。今回のお願いに対する回答は、後日私からS様に連絡します」と話し、S氏には丁重にお帰り頂いた。その後1週間ほど私は、S氏の依頼を受けるか、受けないかを悩みに悩んだ結果、結論を下した。私として、S氏の私を克ってくれた気持ちに応えるだけではなく、自らの月刊誌に関する企画能力を試し、下がり続ける購買者数を増加に転じる策を実行するため、依頼を引き受けることとした。この時の甘い判断が私にとって、結果的には辛い現実となって帰ってくるのだが、その時の私には、3年後の最悪の結末を想像も出来なかった。
その後、私がD誌の改善の策として打ち出したのは、今まで無かったD誌編集委員会内規(図‐2参照)の策定、月刊誌編集委員の総入れ替え、表紙の大変更、編集記事や依頼原稿の見直し、査読原稿掲載への変更、新たなシリーズ企画の開始などなどである。特に重要視したのは、魅力度が落ちたD誌紙面の刷新である。そこで私は、編集委員の構成が国中心のメンバーであったのを断ち切り、行動力と人間的魅力溢れ、注目度が高いO教授に編集委員会委員長をお願いし、O教授を核とした民間企業中心の編集委員会委員に総入れ替えを行った。新たな編集委員会委員は、土木系のあらゆる部門から次期リーダに相応しい人選を行い、委員就任許諾に口説き落とし、五里霧中の状態で新たな編集委員会をスタートさせた。
図‐2-編集委員会内規:D誌編集委員会
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