あけましておめでとうございます。今年で我国の鉄道開業149年となります。明るい話題として、構造物は十分耐久性を持っているものが多いという話をします。
今まで、構造物のトラブルの事例について紹介してきました。しかし多くの構造物はトラブルなくあるいはトラブルがあっても補修して使い続けられています。
設計が妥当で、環境が厳しくなければ、しっかりと造られた構造物は十分に100年以上の耐久性を持っています。
コンクリート構造物の劣化は、今まで紹介したような設計、施工、材料についての配慮不足や、知識不足などの原因があります。この原因をなくして造られた構造物は十分な耐久性を持っています。また、劣化が生じても、定期的な点検で早期の問題を発見して処置することで、使い続けることができます。
鋼構造物は、設計、施工に問題がなければ、腐食が主な劣化原因です。腐食は塗装の塗替えがしにくい箇所や、塗装周期が長すぎるなどのメンテナンスの不十分なことに依っています。疲労は、設計時の、配慮不足や知識不足が主な原因です。鋼構造は問題の生じた部材を交換するなどの対処で、延命化は十分可能です。
今回は、今も使われている長寿命の鉄道構造物のいくつかについて紹介します。
1. 現在も使われ続けている長寿命構造物
1.1 橋梁の数と、建設年
JR東日本の今使われている在来線の橋梁の建設年と数量を図-1に示します。この図の傾向は全鉄道でも変わりません。図-1の左の2本の棒が明治時代につくられ今も使用されている橋梁の数です。明治の初期は、鉄桁は、海外からの輸入です。大正に入り、国産の鉄や、セメントが海外からの輸入材とともに使われだし、国内の技術者による橋梁が造られ始められています。橋梁の材料は、明治時代は輸入した鉄がほとんどで、大正に入ってから国産でセメントや鉄が造られたことからコンクリート橋梁も造られ始めています。プレストレストコンクリート橋梁は戦後から造られています。多くの橋梁の造られたのは昭和初期と、戦後の高度成長期であることがわかります。この図より今も多くの在来線の構造物が、明治、大正、昭和に造られ、それが今も使い続けられていることがわかります。最近の橋梁の数が少なくなっているのは、在来線の建設はほとんどなくなり、新幹線の建設が中心となったことから、この図には新幹線が記されていないためです。
1.2 鋼橋
鉄道の最初は、お雇い外国人の技術者が指導しました。国内で現地調査からスパンなどを決め、設計・製作は外国でなされ、部材を船で運び、国内の工場で組み立てるという方式がとられていたようです。
この写真-1は今でも使われている左沢線の最上川橋梁です。この橋梁はイギリスから輸入したものです。1886年(明治19年)東海道線木曽川橋梁として架設され、1921(大正10年)年に移設されています。経年135年となっています。フラワー長井線の最上川橋梁も同じく木曽川から移設されたものが今も使われています。
写真-2の橋梁は磐越西線にある阿賀野川にかかる徳沢橋梁と釜の脇橋梁です。これはアメリカ製で経年109年と110年となっています。
写真-3の橋梁も磐越西線にある一の戸川橋梁です。アメリカ製で、経年113年となっています。
写真-4は、総武線の秋葉原駅近くにある松住町架道橋です。1932年(昭和7年)に造られ今年で経年89年となっています。このころから国内で製作した橋梁となっています。国産の初期の橋梁です。
錦糸町―両国間の高架橋は、1900年(明治33年)から1904年(明治37年)に造られた最初の市街地高架橋でした。上路桁スパン6~18m合計83連、橋脚はレンガや石積みで7mの木杭がつかわれていました。関東大震災での被害が大きかったので、1931年(昭和6年)から1932年(昭和7年)にかけて造りなおされ、お茶の水―両国間が開通しました。松住町架道橋や隅田川橋梁(38+96+38m)もその時に造られています。関東大震災後の両国―錦糸町間の被害状況を写真-5に示します。
1.3 鉄筋コンクリート
1907年(明治40年)に山陰線米子-安来間に造られた島田川暗渠(スパン6ft≒1.8m、写真-6)のRCアーチ(経年114年)が最初の鉄道の鉄筋コンクリート構造物です。
写真-7は1919年(大正8年)に建設された東京―お茶の水間高架橋の神田駅付近の高架です。鉄筋コンクリートの初期の高架橋です。それまでの高架橋は新橋―東京間に1900年(明治33年)から1910年(明治43年)に造られた有楽町駅付近に見られるようにレンガのアーチ構造でした。これは単純桁を並べた高架橋で鉄筋コンクリートですが、それまでのレンガ構造と合わせるように表面にレンガが貼ってあります。経年102年となっています。最近に耐震診断を行い、性能の足らない箇所は補強を行っています。鉄筋は丸鋼が使われており、降伏震度は若干小さいが、変形性能は比較的ある構造物です。コンクリートは強度面での低下はないようです。
関西では1922年(大正11年)から1931年(昭和6年)にかけて、灘―鷹取間の市街高架橋がRCラーメン構造で造られています(図2)1)。1995年(平成7年)の阪神大震災で、新しい高架橋が柱のせん断先行破壊で多く倒壊したが、この経年90年程度の市街高架橋には被害はほとんど生じませんでした。
写真-8の橋梁は、内房線にある山生橋梁です。最初のころの本格的な鉄筋コンクリートの橋梁です。経年101年となっています。海のそばにあるが、日本海側の構造物に比べると、塩害は生じているが比較的軽微です。最近になり電気防食での対策をしています。
写真-9、図-3の信楽高原鉄道第一大戸川橋梁は、本格的なPC 桁として1954年(昭和29年)に造られたものです。それ以前には、戦後、東京駅や、大阪駅の構内に短いPC桁が使われていました。このPC桁は経年67年となっていますが、土木学会の委員会で調べた結果、コンクリートの中性化もなく 、非常に健全な状況であることが報告されています。スランプ3cmのコンクリートを入念に突き固めたと記録されています。プレストレスコンクリートの研究は、戦中に鋼材を少なくする目的で、鉄道技術研究所で仁杉博士(のちの国鉄総裁)などにより研究がすすめられたが、実用化されたのは戦後です。第一大戸川橋梁も仁杉博士が計画したものです。