-分かっていますか?何が問題なのか- 第56回 葛西橋にみるチャレンジ精神と鈴木俊男 ‐何かが大きく足らない日本のエンジニア‐
これでよいのか専門技術者
(一般財団法人)首都高速道路技術センター
上席研究員
髙木 千太郎 氏
さて、話題提供の二番目は、先送りしていた鈴木俊男と葛西橋について話である。葛西橋の話は盛り沢山であり、長くなるので2回程度に分割して紹介する。それから、話しを進める前に読者の皆様にお断りしなければならないのは、これ以降の話は鈴木俊男氏が話され、先生から頂いた資料と、何故か西海橋繋がりとなる、上部工製作・架設会社である横河ブリッジホールディングスから提供された資料を基に記述している。今回紹介する内容の曖昧な部分は、鈴木俊男氏が既に他界され、再確認出来ないので、私の個人的な思いで説明していることをご容赦願いたい。
3.葛西橋と鈴木俊男その1
私が何故、今回話す葛西橋と鈴木俊男について話題提供したくなったかである。鈴木俊男氏は、橋梁専門技術者として高い評価を受け、独自の理論を持ちその理論を実務に生かし、先進的な構造として残したなど、以前紹介した吉田巖さんと共通する部分が多々ある。鈴木俊男氏の風貌は強面であるが、懐に入ると意外と人情味が厚く、若手に対し、技術の習得法や専門技術者として海外に何を学ぶべきかなどの指導を惜しまない人であった。特に、鈴木俊男氏が設計した葛西橋は、重要文化財、田中豊の隅田川・清洲橋に似た外観ではあるが、特筆すべきポイントが上部工だけではなく、下部工にも数多くあることから、関係者として説明する責務があると思ったからである。私が関係者と言うのは、葛西橋の設計・施工には一切かかわってはいないが、設計者の鈴木俊男氏、下部工の神様と言われた青木重雄氏(写真-2参照)に教えを受けたこと、葛西橋の維持管理、補修・補強などで何度も関係したからである。それではまず始めに、鈴木俊男とはどのような技術者か分からない人が多いと思うので、私が紹介しよう。
3.1多くを学んだ鈴木俊男先生
鈴木俊男氏は、東京都職員としては私の先輩、また、格は大きく異なるが日本大学理工学部で教鞭を取ったのも先輩(鈴木俊男は教授、私は非常勤講師)である。私が、東京都職員になって鈴木俊男氏(以降、私自身親しみがあるので鈴木さん、若しくは鈴木先生を使い分ける)に直接会って話したのは、最初は、昭和末、西1号庁舎(旧都庁舎・丸の内時代)の技監室(図-8参照 矢印の所が技監室)であり、最後は、平成中半、第二本庁舎(新宿新庁舎)の局長室である。鈴木技監と西1号庁舎で会った時は、職制上の上下関係であることもあり、会話は個人的な話は一切なく、私の決裁文書の説明に対し、「髙木君、それでいい。その方向で進めて良いと課長に話しておくように」など業務に関する会話が全てであった。私の頭の中には、私が起案内容を説明するために座る、白いカバーのかかった長いソファーと、鈴木技監の座る立派な肘掛のソファーの距離が偉く遠かったイメージが残っている。何故そのような感覚になるのか思い返すと、当時は、技監など理事級職員と私のような若手の平職員とは、格も外部の評価も月とスッポンの違いだったからである。その上、丸の内庁舎時代の鈴木技監は、年に何度か武蔵工業大学(現在の東京都市大学)に運転手付きの黒塗りの車で行くことがあり、それを玄関から見送った。学生に橋梁工学を教えるために行くとの理由を周囲から聞いて、「公務員であるのに大学で教鞭を執る、それも黒塗りの車で往復、鈴木技監は途轍もなく偉い技術者なんだなー」と感心もし、羨ましくも思った。時は流れ、平成年間になると私と鈴木俊男氏との距離が急速に縮まった。練馬・羽沢にある鈴木さんの御自宅に何度かお邪魔するようになると、ある時から富士山のように高かったハードルが、まだまだ高いが、高尾山のように低くなったのである。直接会って話すことは、事前準備等大変ではあるが、鈴木さんとの意思の疎通を図れ、会って話すたびに急速に親近感が湧いていった。鈴木さんのお宅に行くと、「おい、髙木君にココアを入れてあげなさい」とダイニングの奥に座られている奥様に話され、お菓子とココアのセットが目の前に来るのが決まりであった。
鈴木さんの話は、先の田中豊、吉田巖、そして平井敦、村上永一、青木楠男、田島二郎、伊藤学、国広哲夫・・・日本を代表する重鎮との宴席(写真-3参照)での話や、鈴木さんの好きなゴルフ(写真-4参照 著名な田中豊氏もゴルフが好きとの話であった)に関する逸話であった。私にとっては、会ったこともない歴代の偉人達と絡めた話ではあるが、興味深く、大変勉強になる時が多かった。そして、平成に局長室に来ていただいた時は、東京都として鈴木俊男氏に感謝状を渡すためで、私が鈴木さんに会ったのはこの時が最後である。私は当時を振り返って思う、今はテレワークやWeb会議真っ盛りであるが、対面の重要さを忘れてはならない、相手の動作を見て、聞いて、肌で感じると今まで理解できなかったことが不思議と分かるようになる。鈴木さんと私が対面して話した機会は、昭和から平成の間、数多くあるが、今思うといずれの時も真の技術者としての発言や心意気を感じ、それが自分自身を大きく成長させてくれたからである。それでは鈴木先生ご自慢の、荒川河口に架かる葛西橋に話しを移すとしよう。
3.2 突桁式補剛桁橋の葛西橋と難工事であった下部工について
葛西橋は、荒川の河口近くに架かるライトブルーに塗られた突桁式補剛桁橋である。写真-5でもお分かりのように、葛西橋は吊橋と思う人が多い橋梁で、地元の人からも変わった橋と、木製であった写真-6に示す旧葛西橋と対比して語り継がれている。絵になる橋、そして橋上から釣り人が荒川に釣り糸を垂らす風景が、よく見られた橋梁でもある。話は脱線するが、冬になると東京湾からの寒風が葛西橋を吹き抜け、釣り人は暖を取るために路上に出ている主構(主構の塗料が焼け焦げるなどで心配もあり、何度も日暮れ時に見に行った)の排水桝の近くで焚火をする(写真-7参照 黄色い破線のあたり、上流側の主構造の陰で焚火である)。それで、冬季になると良く火災となり、地元消防署や警察から電話があり、現場へ急行したものである。路上の焚火程度では、鋼主構が変形することはめったにないが、大騒ぎになったことは事実である。話を葛西橋本体に戻すとしよう。葛西橋の構造諸元は、上部工の形式は、主径間(江東区側)は 突桁式吊補剛桁橋(鋼カンチレバー突桁式吊補剛桁)、側径間及び取り付け道路は、活荷重合成格子桁である。下部工は鉄筋コンクリート製躯体で、基礎は主径間が井筒基礎、側径間が斜鋼管杭と鋼管杭の組み合わせである。橋長は、1162.7m(荒川及び中川渡河部と江東区側及び江戸川区側取り付け部、開通時は東京一の長さ)、幅員は、15 m(車道11 m、歩道2 m×2)である。葛西橋建設工事は、東京オリンピック開催前の1959年12月に着工し、3年10か月後の1963年(昭和38年)9月に竣工、同年10月7日(月曜日)天候が曇りから晴れに変わり陽が差す中、開通式典が開催され、江東区側から親子三代の渡り初め儀式が執り行われた。総事業費は、当時のお金で19億3千2百万円である。
葛西橋の下部工は、私の所有する資料を見ると、当初深さ47mにおよぶ長大な井筒(刃口部には厚さ10㎝のフリクションカット、沈下設備に送気圧7㎏/㎠のエアブロー法採用)を採用し工事を開始したが、-38m付近の細砂層に達した時点で井筒の沈下が停止した。
そこで、1,100tの載荷と水替え工法及び水中発破工法を併用したが効果は少なく、逆に周辺地盤面の沈下量が日々顕著となり、堤防等への影響も危惧される最悪の状態となった。井筒の沈下が止まった状態を改善する方法として、当時前例の無いニューマチックケーソン(潜函井筒)工法への切り替えによって最終到達面(砂礫層)-45~47mに沈下させることが出来たとある。通常の井筒工法から施工途中でニューマチックケーソンに変更することは、作業気圧2㎏/cm2のかかった広大な作業室(60~84m2×45m)内での人力掘削の作業性と安全性を十分に確保し、最終到達前に存在する粘土質シルト層(腐食性が高い)から発生する有毒ガスにも準備対応が求められ、それを実行している。ここに挙げた工法変更を含む多くの課題を処理し、函内で地耐力試験を行い、降伏荷重約200t/m2を確認、設計所要支持力32.7t/m2に対して十分な安全度を有すると判定し、重要な主径間部の基礎工事を完了している。
下部工施工の難易度が高く、度重なる苦難の道を切り開き完成まで持って行けたのは、東京都の職員と請負会社の技術陣一体となって取り組んだ成果である。主径間部の下部工事を請け負ったのは、鹿島建設株式会社であるが、その後、私が関係した葛西橋の上流に架かる船堀橋の補強工事で、葛西橋施工に関わった鹿島建設の監督員から当時の状況を聞いたことがある。監督員の名前は伏せるが、工事は日々戦争のような状態で、先に示した井筒施工だけでなかったそうだ。事例をあげると、軟弱地盤特有の現象と言える、杭打ちハンマーの固定チャックを外すと鋼管杭が自重で地盤中に迷走し無くなった話しや、ディーゼルハンマーで斜鋼管杭を打設するのだが、計算通り打ち込めずやり直した話など、興味ある話は続き、目の前の現場そっちのけで聞き入っていた。資料には残せないが、先人の経験談は書籍よりも勉強になる。葛西橋の堅い話が続いたので、ここらで葛西橋の色味の話をしよう。
3.3 葛西橋の色彩変更について
架設当時から昭和末期までは、荒川河口にシルバー色に輝く地域のランドマーク橋であった。地域に根付いたシルバー色葛西橋の色彩変更は、昭和末に行った。その理由は、シルバー色は塗料が新しいうちは光り輝いて素晴らしいが、飛来塩分等によって変色し易く、結果薄汚れたグレー色に変わると一気にみすぼらしくなる。1972年(昭和47年)から始まった東西線・西葛西駅の先、水没民有地を利活用した葛西沖開発事業(区画整理事業)によって風景が変わり、1978年(昭和53年)に荒川河口に首都高速道路・高速荒川湾岸橋の鋼トラス橋が架かると一気に葛西橋の外観が議論されるようになった。
そこで、担当している東京都第五建設事務所や建設局内から葛西橋の色彩変更案が持ち上がった。橋の塗装は、構造と違って誰にでも口出しが出来ることから、種々な場面で騒動に発展する事例が後を絶たない。葛西橋も同様であった。橋梁の色彩に対する意見は、誰にでも可能と言ったが、色彩設計となると通常は個人の頭の中だけで行う場合が多い。多くの人に理解を得るには、色彩を多角的な観点で行うと同時に精度の高い検討が必要となる。それには、対象橋梁に対し具体的な色彩を表現してみる方法が適切である。それを行うにはいくつかの手法があり、候補色ごとにパースを創る方法や、コンピューターグラフィックスを創る手法、クロマキー他映像機器を使って各種色変機材によって検討する手法、カラーシュミュレーターなどがある。
以上に挙げた手法を比較検討すると、パースを創る手法は視覚的にも理解を得られやすいが時間と費用がかかりすぎる。コンピューターグラフィックスを使うには、以前より大分割安とはなったが、ソフト制作に労力と費用がかかるわりには、画像の解像度が好ましくはない。各種色変換機材を使ったディスプレイ上での検討も画像の精度が考えていたようには出来ないなどの欠点があることが分かってきた。私の考えは古いのかもしれないが、現実的に種々な検討を行えるのは、カラーシュミュレーターが採用される事例が多いと思っている。カラーシュミュレーターによると、1枚の対象画像から好きな色を組み合わせることが可能で、光沢度、陰影、質感などを比較的容易に表現が可能であり、カラーシュミュレーターにより出された色彩は、画像や紙焼きプリントに変換することが容易にできるのも長所である。近年は、ICT機器の急速な進歩からコンピューターグラフィックスも精度が向上し、経済的となったので採用事例も急増していると聞いている。現代のICT進歩から判断すれば当然であるが、私は直近で経験していないので評価はできない。
葛西橋の場合は、時代的にもここに挙げたような色彩検討法を使うのは困難であったことから、視感色で背景となる対象物の色彩環境を測定し、この測定結果を参考にしたペイントメーカーのカラーシュミュレーターを使って、好ましいと評価できる色出しを行い、この中から変化した周辺環境に相応しい候補色を絞り込む手法によって、現行のブルー色を採用した。色彩選定は、担当する第五建設事務所と何度か相談し、現行のシルバー色をブルー色に変更することを決めたが、その後大変な騒ぎとなった。それまでも、荒川に架かる橋梁の塗替えに伴って色彩変更を行っていたが、大きな問題とはならなかったので、私には注意力が働かなかった。それが、葛西橋の塗替え工事と色彩変更について、内部決済が始まると大騒ぎとなった。
最も巨大な壁として立ちふさがったのは、幹部からの意見「葛西橋は鈴木俊男先生、肝いりの重要橋梁だ。それを鈴木俊男先生の了解なしに勝手に色を変える。それは何だ、髙木君、君何を考えているのだ!鈴木俊男さんに本案件が耳に入ったらどう処理するつもりだ、直ぐ考え直せ。○○課長を呼べ」である。慌てふためいて退散、上司に経過を説明したところ、直ぐに上司は幹部の部屋へ。そして結論は、「塗り替える理由は分かった。しかし、私の代にはやりたくない。どうしてもと言うなら百歩譲って、まずは鈴木俊男先生の了解を取ってこい!!」となった。しかし、幹部職員の激しい剣幕には恐れ入ったし、驚きもした。当時の若き私には幹部の言いたいことは何となく分かったが、納得できなかった。その理由は、周りの道路橋で設計者名が明らかにされている事例は殆どなく、そんなに設計者が重要なのかとの気持ちもあった。それでは、既設橋に何かを行うたびに設計者を調べなくてはならない。「そんなこと無理だ」、を基本とする反論が頭の中の半分以上を占めていたのである。それはそれとして、誰が鈴木先生に鈴を付けに行くかが議論の中心となった。結局、鈴木先生に怒鳴られるのを覚悟で説明に行く羽目になったのは、私と直属の上司、同僚の3人となったのである。鈴木先生に怒鳴られるのを覚悟で直接会って話してみれば、何と言うことも無かった。鈴木先生には葛西橋の色彩にそれほどの執着がなかったのである。葛西橋のシルバー色がグレー色に変更するとの話と防食の話しをすると、鈴木先生は「了解した。わざわざ説明に来てもらって悪いね、地元に周知してから塗り替え工事を始めなさい」であった。
令和2年、今となっては葛西橋がシルバー色(写真-8参照:銀白色に輝いていた葛西橋)であったことを知る人は殆どいないであろうし、それを話題にする機会も無いであろう。葛西橋に関する第1回の話題提供はここらで終わりにし、令和2年度最後の話題提供に移るとしよう。それはいつもの耳の痛い話である。