-分かっていますか?何が問題なのか- 第55回 市民が好きになる橋の外観、そして塗替えとライトアップ ‐住民のニーズに応える行政判断とは‐
これでよいのか専門技術者
(一般財団法人)首都高速道路技術センター
上席研究員
髙木 千太郎 氏
1.はじめに
前回は、私自身技術者として有益な情報であると考える、“自碇式吊橋・清州橋”について貴重な話題を幾つか読者に提供した。前回私が読者に考えて貰いたかったポイントは、専門技術者としてあるべき姿とはどのようなことか、行政技術者が目指すべき理想像とはどのような人かである。私の考えている理想の姿に対する強い思いから、過去に私自身が入手した資料を基に、尊敬する偉人『田中豊』の技術者としての功績、あまり知られていない大学の教員としての姿勢を、持論と想像力を駆使して話を進めてみた。私が話題を提供する中で特に熱を入れたのは、清洲橋と同じ形式のピッツバーグの3姉妹橋関連の話題である。ドイツ・ケルンの自碇式吊橋の話は良く出るので私も知っているが、恥ずかしながら私自身、まさか鉄鋼の街として有名なペンシルベニア州・ピッツバーグのPNCパーク(ピッツバーグ・パイレーツのホームスタジアム)の横に、隣接して3橋並列で架かっているとは思いもよらなかった。筆者が不勉強なだけだと、お怒りの読者は数多いとは思うが、スタジアムの外野席から黄色に輝く3姉妹橋(写真‐1参照)を見つけた私は、驚きと感動で我を忘れ、ビールコップ片手に通路に立ちすくんでいた。その時に受けた感動を思い返し、自ら強調したかったのは、当時の最先端を行く3橋を設計した米国のレゲニー郡公共工事局の技術者『ヴァーノンR.コヴェル』と、復興局、鉄道省の技術者『田中豊』との、行政技術者としての共通点、技術を追求する向上心であった。ここに示す私の真意が分からない方は、もう一度前回を読み返していただき、専門技術者、行政技術者の有るべき姿を考えて貰いたい。
さて今回は、荒川河口近くに架かる“葛西橋”を主題に、設計者である『鈴木俊男』の技術者としての学ぶべき点と、厳しいながらも後輩への配慮を忘れなかった姿勢などについて話題を提供する考えであったが、急遽予定を変更することとした。その理由は、5か月を超える自粛生活、在宅勤務とオンライン授業、そして来年夏に延期した東京オリンピック開催が危うくなった現状を考えてのことである。私は、世の中を大きく変えた新型コロナウィルス感染症(COVID-19)拡大が止まらない現状を鑑み、社会を少しでも明るくする話題の提供が望ましいと判断したのである。今回の話は、前回の話題になった清州橋を含む隅田川に架かる震災復興橋梁を中心に、橋梁の塗替えと、夜景に映えるライトアップについて話をしよう。それでは本題に入る前に、話題提供となる橋が架かっている隅田川の生い立ちから話を始める。
江戸時代以前の隅田川は、坂東太郎(関東にある日本で一番大きい川)として呼ばれていた有名な利根川の一部であった。江戸時代になると、江戸市民を洪水から守る目的で、東の入間川に付け替え工事が行われ、荒川の一部となった。しかし、江戸幕府の思惑は外れ、隅田川(千住川、浅草川、大川などと地域によって呼び名が変わっていた)は毎年のように氾濫、隅田川を跨ぐ道路橋も木橋であることもあり、度々流出することとなった。江戸から明治に時代は移り、明治政府は治水対策として、現在の岩淵水門から河川幅500mの図‐1に示す荒川放水路築造工事に着手し、19年かけて延長約21㎞の人工河川を完成させた。荒川放水路築造事業は、パナマ運河・ガトゥン閘門を設計し、帰国後内務省・内務技師となった、偉人・『青山士』が建設工事を指揮している。『青山士』の話は、私の故郷である静岡県磐田郡の合併前(1945年)、同一区域の豊田郡出身でもあること、行政に携わる技術者のお手本のような存在でもあることなどから、別の機会を設けて詳細に説明することとしよう。ここで隅田川の話に戻す。現在の全長23.5㎞の隅田川、荒川と正式に区分けされたのは、1965年(昭和40年)である。
江戸時代に隅田川に架かる道路橋は、千住より下流に千住大橋、両国橋、新大橋、永代橋、吾妻橋の5橋であった。明治時代になると、朽ち果て、流失しやすい木橋から耐久性に優れる鉄橋へと架け替えが進むだけではなく、利便性向上の目的で新たな橋、厩橋が架けられた。この後説明する樺島正義設計の“お助け橋”として有名であった新大橋(図‐2参照、旧新大橋の一部犬山市・明治村に保管)もこの時期に架け替えられている。
大正時代移ると、マグニチュード7.9の大正関東地震が1923年(大正12年)9月1日に発生、犠牲者数105、000人以上、物損被害総額約45億円(日本のGNPの1/3に相当)の大きな被害をもたらした関東大震災を引き起こした。関東大震災の被害は甚大であったが、国内の橋梁技術としては大きな転換期となり、現在の隅田川に架かる著名橋梁群を生むことになった。震災復興事業によって架けられた道路橋は、隅田川支流の相生橋、本流の下流から永代橋、清洲橋、両国橋、蔵前橋、厩橋、駒形橋、吾妻橋、言問橋の9つである。今回話題提供の柱となるのは、震災復興橋梁と『田中豊』の教え子である『安宅勝』設計の、昭和15年(1940年、皇紀2600年)、幻の万国博覧会及び第12回オリンピック大会(両方とも会場は東京・月島が候補地)開催を記念して架けられた勝鬨橋である。この幻となって消えた第12回東京オリンピック大会は、皇紀2600年(紀元2600年)記念行事として開催する予定であったが、日中戦争などの影響や軍部への配慮などから、開催2年前の1938年(昭和13年)7月にオリンピック史上初の開催地返上となり、他の国での開催も検討されたが最終的に中止となった。
東京は、オリンピック招致3度目となるが、今大会のコンセプトは、「全員が自己ベスト」「多様性と調和」「未来への継承」の3つである。観光立国の推進に活かす目的も併せ持つ『2020年東京オリンピック・パラリンピック』の開催に合わせるように、東京都は隅田川に架かる橋梁群のお化粧直しを決定している。対象となる道路橋は、東京都管理の震災復興橋梁である永代橋、清洲橋、蔵前橋、厩橋、駒形橋、吾妻橋の6橋と、隅田川の橋梁群の中で最も新しい2018年(平成30年)架設の築地大橋、幻の大会開催に合わせるように架けられた1940年(昭和15年)の勝鬨橋、第18回オリンピック競技会開催に合わせるように架けられた1964年(昭和39年)10月の佃大橋、1994年(平成5年)平成初、兜の冠を模して架けられた中央大橋、震災復興事業の一環で1928年(昭和3年)に架けられた白鬚橋の11橋である。国の復興局、太田圓三、田中豊らを代表とする土木技術の主勢力である鉄道省グループ設計の6橋と、前述鉄道省グループとは一線を引く米国帰りの専門技術者、新興勢力の樺島正義、増田淳が設計した新大橋と白鬚橋が混在する隅田川の橋梁群は、私にとって、現代の技術者に橋梁設計、外観を繕う本質とは如何にすべきかを常に語りかけているように思えた。次に、国内で初めて橋梁設計コンサルタントを開設した、樺島正義の考える市街地橋梁のあり方について話を進める。
2. 市民が好きになる市街地橋梁のあり方
明治時代末期から大正時代にかけて、木橋から鉄橋、鋼橋へと使用材料が移り変わる橋梁界において、明治、大正、昭和と時代を跨いで我が国の橋梁に大きな足跡を残した著名な設計家・樺島正義の紹介と、樺島が創り出す橋梁景観の考え方について説明しよう。
日本橋、新大橋、旧四谷見附橋(八王子市、多摩ニュータウンに移築)など後世に残る著名橋梁の設計に関わったことで有名な樺島正義は、大学卒業後翌年の1902年(明治35年)元旦に米国カンザス・ワデルヘドリック工務所の扉を叩き、入所している。樺島自身、留学先の米国において橋梁や鉄骨設計・製作を習得はしたが、彼の真の狙いはワデル氏の技術者としての生き方に特に興味を示し、それを学んだようである。そのワデル氏の言う理想的な橋梁のコンサルティング技術者とは、「教養と専門知識はもちろん建設に関する経済的知見と企業に対する健全な判断力を有し、クライアントに誠実かつ施工者に公平であり、更に部下に存分に仕事をさせ得る活力に満ちた人物である」(中井祐東京大学教授・土木計画学研究論文集から引用)と示している。国内の設計コンサルタントの技術者は、この言葉の意味を理解しているのであろうか?
次に「真の技術者とは、肩書で勝負するのではなく、プロフェッショナルエンジニアとしての実力や判断力で勝負できる」と先の論文の中で中井祐教授はワデル氏の考えを代弁している。今国内の橋梁設計の現状を見回して私が感じるのは、ワデル氏のいう真の技術者、プロフェッショナルエンジニアの少ないこと、肩書重視のエンジニアが多いことである。新たに建設された橋梁の外観を見ると、何か新しさを出そうとの意気込みは感じるが、そこには海外のどこかで見たようなディテールや著名な有識者の顔色を窺ったような造形ばかりが目につき、だれのために景観を考えたのか分からない。明治末から、大正、昭和初期の新鋭専門技術者を輩出した時代は遠い昔となり、固有の外観に取り組む姿勢に欠ける専門技術者が多い現状に憂いを抱くのは私だけであろうか。
椛島正義は、米国に渡って4年後の1906年(明治39年)6月に帰国、東京市土木課橋梁掛長となっている。プロフェッショナルエンジニア・樺島正義は、橋梁景観について次のように語っている。「道路網を繋ぐ幾多の橋梁が、星のように市街の諸所に散らばっている。私は、これらの橋梁相互の美を発揮し、更に一都市としての橋梁の上に脈絡ある統制が欲しいと思う。橋梁個々の概観は完全だとしても、この幾多の橋梁が相互に何の統一もなく散財していては、都市としての引き締めがない。外観が満点である橋梁だからと言って、同じような橋梁を到る処に架設したとすると折角橋梁に恵まれていた都市も、橋梁によってその美観を表すことが出来ない。そして単調となってしまう。」と述べている。また、橋梁そのものの外観については、「都市の中の橋は人目に触れる場合が極めて多いので、その外観が公道橋の最も重要事項の中に数えられる理由である。公道橋の外観は、強さ及び経済に優るとも劣らざる重要条件である。否ある時は経済を外観の犠牲とすることも、また珍しくない。」と述べて、都市内橋梁が創り出す景観は、採用する橋梁外観をマクロで統括し、ミクロでそれぞれの外観を選定することが必要であるとしている。
私が、樺島正義の設計した橋梁に直接触れることが出来たのは、日本橋、新大橋、四谷見附橋、新常盤橋、神宮橋(写真‐2参照)、そして三原橋である。いずれの橋も、樺島正義の設計理念が強く感じられ、私個人として感銘を受けた橋ばかりである。特に樺島正義は、「橋梁外観に配慮することが経済的にマイナスとなっても配慮すべきで、よく練られた外観からもたらされるものは大きく、都市の風格を整えることになる」と、橋梁外観の重要性を強調している。樺島正義が理想とする市街地橋梁のあり方は、先に示した5橋(日本橋以外)の架け替えや撤去時に橋詰めに佇む私に、いずれの橋も外観の重要性を強く語り掛けてきた。このような理由から、新大橋を除く他の橋梁を架け替える際には、親柱や高欄などのストリートファニチャー類を可能な限り再利用し、樺島正義の考えを後世に残すようにした。もう一つ大きな理由がある。それは、樺島正義が設計した橋は多くの市民が愛し、好きになる橋ばかりだからである。次に、本稿の話題提供となる隅田川筋の橋梁について話をしよう。
東京都内の橋梁整備は、大正関東地震による被災した東京を復興させる震災復興事業及び戦後復興、高度経済成長期から現代まで、先に紹介した樺島正義の橋梁景観の考えに大きく影響を受けている。樺島正義の橋梁に関する考え方は、架橋地点の場所性を橋の線形・構造形式・橋種・装飾等を反映させながら、橋台や橋詰め、河川、隣接橋等を含めて総合的に橋の景観を構成していく論理と手法を採用することである。それが見て取れるのは、隅田川及びその周辺の河川に架けられた数多くの橋梁であり、柱となる隅田川を見ても、河口・下流部に架かる築地大橋、勝鬨橋、佃大橋、中央大橋、永代橋と続き、中流部の駒形橋、吾妻橋、言問橋、桜橋、白鬚橋、水神大橋、そして上流部の豊島橋、新豊橋、新田橋、新神谷橋まで、橋梁外観(上部工構造形式)の異なった多くの橋梁が架けられている。その結果、隅田川の橋梁は、明治から大正、昭和、平成、令和と時代は変わるが、近代都市の造形を担う重要な要素の一つとして住民や利用者から認められ、そして愛されている。架かる橋梁は、個々の橋梁としてだけではなく、ある地域全体、例えば隅田川筋の橋梁群として捉えられることが多い。このようなことから、隅田川は、『橋の博物館』とも言われて、パリのセーヌ川と対比されて語られることが多い。
今回オリンピックを招致した東京都は、『2020年東京オリンピック・パラリンピック』を迎えるにあたって、選手村と都心、新国立競技場などを結ぶ最下流の環状2号線・築地大橋から中流部の白鬚橋までの12橋について、水辺の賑わい向上、新たな観光資源として寄与するように、主要橋梁の色彩変更やライトアップ整備を行っている。それでは、今回の本題の一つ、隅田川に架かる橋梁の塗替えと既設塗膜の分析結果について、ポイントを絞って説明しよう。