-分かっていますか?何が問題なのか- 第53回 偉人・吉田巖から学ぶ ~為せば成る!七転び八起きの強い覇気と学ぶ力~
これでよいのか専門技術者
(一般財団法人)首都高速道路技術センター
上席研究員
髙木 千太郎 氏
1.3 伊ノ浦橋と人材育成
伊ノ浦橋工事事務所の所長は、かの有名な村上永一氏である。私が推測するに、吉田巖さんを道路橋の道に引きずり込んだ張本人はたぶん村上永一氏であろう。村上所長は、当然のように伊ノ浦橋の設計を、大学を卒業したての新人に命じたとの記録がある。私の常識では考えられない人員配置と職務命令である。
現代のように設計コンサルタントがあって、対象橋梁の設計資料と設計図面や施工要領資料があるならば、製作会社と施工会社の技術陣から強いフォローアップがあれば、何とか竣工に辿り着くかもしれない。
昭和28年、サンフランシスコ講和条約締結2年後、戦後間もない混乱期である。長崎から離れた山間の大村湾北端、400mを超える海峡に、それも潮の流れが速く渦を巻く伊ノ浦瀬戸を跨ぐ橋梁を架ける自信が新人・吉田巖さんに有ったのであろうか?
上司、村上所長の技術力が卓越していたことは本州四国連絡橋に関する技術論文や講演内容で十二分に分かる。しかし、卒業したての新人が意欲だけで経験のない設計や施工をすること、請負業者を指導することなど、いずれをとっても無謀と判断するのが人事管理の常識と考える。
吉田巖さんの有り余るような能力は分かったとしても、村上所長が新人に、これまで架けたことのない支間長の鋼アーチ橋設計ができると判断したのか大いに疑問が湧く。村上所長としては、俺が吉田巖を常に見守って、問題があれば指導するし助けもできるから大丈夫だ、と決断したのであろう。
吉田巖を伊ノ浦橋以降の日本橋梁界を背負う機能する専門技術者に育てる、そのためには『鉄は熱いうちに打つ』人材育成が今だと思ったのかもしれない。現代社会であれば、本人がノイローゼで病に伏せるか、パワーハラスメントとして村上所長が訴えられるのが関の山である。
経験したことがないような難工事を新人に任せる所長・村上永一氏の人を見る目の凄さと、人材育成方法の素晴らしさを感じる事実である。人を使うには、権限の委譲と責任を負わせることが重要であることは分かっていたとしても、なかなかできない。
吉田巖さんの記述によれば、事務所に着任した4月2日(金曜日)の状況が書かれている。自分の座る机の上には大学で仕上げたばかりの卒業論文が置かれており、それを見てその日の昼、親子丼を注文し、タイガー計算機で伊ノ浦橋の設計を始めている。
なぜ東京人の吉田巖さんが、長崎で美味しいと言われている親子丼(地鶏の親子丼)を選択したかは不明だが、覚悟を決めた男気が感じられ、陸士・吉田巖ここにありだ。
村上所長は、吉田巖さんに全幅の信頼を置き、経験のない橋長300mを超える上路式ブレースドリブ・鋼アーチ橋の設計を任せている。当然、新人の吉田巖さんには、長崎県の技師3名、製図担当の大学院生3名が補助に付けられたそうだ。
しかし、人を使って仕事をしたことない28歳の新人が部下を持ち、その部下を使いアーチ橋の構造設計や世界初の片持ち式架設工法の施工管理までできるのが、言わずと知れた吉田巖の実力と判断力の凄さだ。
話は続く。吉田巖さんを含む7名のチームで、支間長216mの伊ノ浦橋の設計をわずか4カ月半というスピードで完了させている。まさに、昨年のラグビーワールドカップで話題となった『ワンチーム』と同じ、吉田巖チームは結束し目標に向け行動したのであろう。
私が想像するに、時代的にタイガー計算機と計算尺を駆使して構造計算を繰り返し、捗らない烏口に閉口しながら製図し、やったことのない発注用の鋼部材製作図を仕上げたのであろう。
伊ノ浦橋の製作・施工に係った横河橋梁(株)の會川正之氏に関する記述によれば、「この橋の成功は、きわめて周到な準備と精密な測量により支えられた。基本方針に従って、原寸、罫書、切断、孔明け、機械削り、組み立て、鉸鋲、仮組み立てなどの各工程及び検査において、緻密な準備と方法が工夫された」と後日語っている。
この記述を見て、私なりに当時の伊ノ浦工事事務所の状況を想像すると、事務所の吉田巖さんをはじめ、職員、関係者は土日なしで、深夜遅くまで仕事に没頭していたのであろう。
吉田巖さんとはレベルが違うがこの私も32年前、東京港連絡橋・新交通システム建設室時代は、土日なしで、ほとんど毎晩、残業、残業状態、4時間程度の睡眠で設計・積算に没頭していた。しかし私は、あの時代の厳しい環境の中での異常とも思える頑張りが今の自分を支えていると思う。
それにしても、短期間の設計、その後の世界に類を見ない施工技術の駆使など、どれをとっても吉田巖チームの仕事は人間業ではない。ここに、伊ノ浦橋の設計図から抜粋し、図-4と図-5の2枚掲載するので良く見てほしい。
4カ月で構造計算を終え、スケッチを繰り返しながらここに示す図面を描ける吉田巖さんの技術力と忍耐力、そして立派な最終成果となるように導いた村上永一氏の卓越した指導力をひしひしと感じる。
村上所長は、吉田巖さんの設計に問題がある時にはその箇所を指摘するのではなく、「吉田君、その部分はもう少し考えたほうが良いのではないのかな」と言って、考える機会を与える行動をしたそうである。
部下の考えや行動を信頼しプライドを傷つけずに指導する、村上永一氏の技術者育成・指導力の素晴らしさには感嘆であり、現代の我々が学ぶ人事管理、技術者指導法である。
図-6は、上部工架設中の伊ノ浦橋鳥瞰写真である。架設工法は先にも一部紹介したが、支承部の固定性を活用して、両岸から対照的にカンチレバー架設をする方式が採用された。
図-6には、斜張索をアーチ部材に取り付け、橋台上の鉄塔を介して後方道路脇のアンカーに固定している状況が見て取れる。モノクロ写真であるがカラー写真よりもモノクロであることからか、何とも言えぬ哀愁感が漂っていて感慨深い。
伊ノ浦橋は、開通時には橋名が現在の橋名、西海橋となった。西海橋の諸元は、構造形式が上路式ブレースドリブ・鋼固定アーチ、橋長が316.26m(アーチ支間:216m)、幅員が7.5m、設計と施工管理は建設省の直営、ブレースドリブ・鋼アーチ部の製作・架設会社は横河橋梁株式会社、架設工事で重要な位置を占めた取り付けコンクリート橋及び下部の施工は、清水建設株式会社である。
ここまで、読者の多くの方が知らない吉田巖さんの生い立ちから、西海橋(伊ノ浦橋)の設計までをポイントを絞ってお話しした。図-7は、村上所長、吉田巖さん他ワンチームが戦後の混乱期に、東洋一の規模で竣工させた伊ノ浦橋(西海橋)のカラー写真である。
西海橋の下には渦を巻く伊ノ浦瀬戸が確認でき、架設工事中、吊った部材上の関係者が眼下の国内三大急潮の一つである渦を巻く伊ノ浦瀬戸・海面を、どのような思いで見ていたのか興味が尽きない。
西海橋以降の吉田巖さんの話も紹介したいところであるが、これ以上書くと膨大な読み物となり、読む方も大変と思われるのでここで止めるとしよう。いずれ、西海橋後の吉田巖さんが大型ケーソンを独学で設計した北九州・若戸大橋、読者の多くの方々が知っている、多柱式基礎やエアスピニング(AS)工法の採用など種々な技術的課題に取り組んだ本州四国連絡橋については、また機会があれば、『吉田巖さんその後』として紹介しようと思う。
最後に、現在の西海橋について、私が今年の1月に西海橋の架かる伊ノ浦(針尾)瀬戸を訪れた時に感じたことを中心に、関連する話をして本稿の終わりとしよう。