-分かっていますか?何が問題なのか- 第53回 偉人・吉田巖から学ぶ ~為せば成る!七転び八起きの強い覇気と学ぶ力~
これでよいのか専門技術者
(一般財団法人)首都高速道路技術センター
上席研究員
髙木 千太郎 氏
1.偉人・吉田巖の橋梁専門技術者の世界
亡くなられて数カ月も経つのに今さらなんだ、吉田巖氏を知りもしないのに! と憤慨する読者がいることを十分覚悟して、吉田巖氏の波乱万丈の世界と興味が尽きない人成りについて話すとしよう。
吉田巖さん(真の橋梁専門技術者、卓越した技術力と判断力を持つ吉田巖氏を吉田巖さんとは失礼な!! と叱らないでください。恩師、鈴木俊男さんから吉田巖氏に関する多くの逸話を聞いていたので、堅苦しい表現よりも愛着を持った表現にしたいからです)が生きていれば、本人からも髙木君、君に僕を語る資格はないよ、と言われるかもしれない。先に話した吉田巖さんを語る時期が遅いについて、前稿で話せなかった理由を述べよう。
私には、前稿の原稿提出期限11月末の時点で吉田巖さんについて書くのは不可能であった。その理由は、吉田巖さんが亡くなられたことが公表されたのは、令和2年が開けた1月初旬であったからである。今、吉田巖さんを語ろうとしている私自身も年明けまで、亡くなられことを全く知らなかったから情けない。橋梁の世界に身を置きながら蚊帳の外となっていた私が、偉人・吉田巖さんを語る話の始まりに、まずは吉田巖さんと筆者・髙木千太郎の繋がりを話そう。
1.1 吉田巖と凡人・髙木千太郎の関係
本稿を読まれている方々や数多くの技術者は、生前の吉田巖さんに会って、直接本人から聞きたいことが山ほどあったと思う。読者の立場になって私が考えてみると、例えば、全く資料や事例がない中で新たな構造に取り組む考え方、橋梁の耐久性を高める構造の基本、建設する環境に最適な上・下部構造を決定できる暗黙知、困難を可能にして事故を起こさない施工技術と判断力……などなど、教えを受けることは星の数ほどあろう。
書いている私自身も、吉田巖さんにぜひ聞いておきたいと思うことが沢山ある。例えば、行政技術者を自負する私としては、優れた企画の立て方、その企画を実現に向け貫き通す強い意欲を持つには、技術の継承と真の技術者育成方法、行政専門技術者のあり方など、書きだしたら切りがないほどある。
私にとって橋梁界の重鎮である吉田巖さんを失ったことは、とても残念である。私個人が吉田巖さんに面と向かってお話しできたのは、東京で開催される講演会などの後に開かれる懇親会が多かった。私にとって吉田巖さんは雲上人であり、橋梁技術や知識、経験も私など足元にも及ばないほど、けた違いに優れたエキスパートエンジニアなのだ。
その上、私が師と仰ぐ鈴木俊男さんから聞いていた技術者魂溢れる吉田巖さんの厳つい姿が常にダブって映り、吉田巖さんとの会話は緊張、緊張の連続であった。吉田巖さんと私が会話をする姿を見守る人々の目には、えらく堅苦しい雰囲気で何を話しているのであろうと、捉えられていたに違いない。私自身、何と言っても吉田巖さんの強面の外見(がっしりした骨太の体形)と鋭い眼光(写真-1参照)には圧倒されることがしばしばで、小心者の私は平常心では話ができなかったのが真実である。私は、吉田巖さんを語っている今でも何とはなく緊張している。
こんな私と吉田巖さんとの会話を思い起こして、紹介しよう。とある閉じられた技術集団例会後の懇親会の会話である。
「すみません! 吉田先生、私は東京都の髙木です。少しだけお聞きして良いでしょうか?」(直立不動の私がそこに立っている)
その1、「あの~、……吉田先生が携わられた本州四国連絡橋の瀬戸大橋についてですが。ケーソン基礎の計算に誤りを先生が見つけられ、それを短時間で修正されたとお聞きしましたが、どのようにしてその誤りに気付かれたのですか?」
その2、「長崎県の吊橋、平戸大橋(写真-2参照)の下部工の位置についてですが。先生はあれだけ潮の流れが速く、支持層も不明な海峡で、即座にここだと橋脚位置を指示できたのは何がポイントだったのですか?」
こんな感じだ。別の講演会の懇親会でも、「吉田先生、先日は大変失礼しました。お話いただいたことを私なりに調べ、何が欠けているか分かり大変勉強になりました。ありがとうございました」(この時もまた、固まったロボット状態の私が頭を下げる)。そして、「先生もご存知の多摩川に架かる橋梁についてですがよろしいでしょうか?」、「基礎の安定性についてですが、それは多摩川に架かる関戸橋(唐突に多摩川・関戸橋の話をしたのではなく、以前、鈴木俊男さんからケーソン基礎の載荷試験と吉田巖さんのことを教えてもらっていた。その話の裏付けは、吉田巖さんの学位論文の写しにも記述がある(図-2))の基礎と支持層についてです。私は都の先輩から、『多摩川は土丹層が固く、支持層に到達していない橋梁が結構ある。関戸橋も同様で、ケーソンの躯体が思い通りに沈下しなくて四苦八苦した』と聞いていますが、ご存知でしょうか? 多摩川中流部、多摩水道橋から上流側の基礎幾つかは、支持地盤層にケーソンが到達する前に沈設を止めざるを得なかったとも聞いています。吉田先生、設計とは異なった状態で基礎が止まっていることについて、耐荷性能上、耐久性能上どのような問題が起きると思われますか?」などなど、機会あるごとに吉田巖さんと、どうしても話をしたくて質問した。
吉田巖さんは、まあ、恐れを知らぬ若輩者が何を言うかと本心で思っておられたであろう。しかし、吉田巖さんは、私が問いかけたレベルの低い質問についてその都度、懇切丁寧に素人でも分かるように説明して頂いた。これは、吉田巖さんの人成、器の広さ故であったのであろう。
今考えてみれば、当時の私の技術レベルに合わせ、吉田巖さんは自らの知見をベースに、いつも以上に内容をかみ砕いて説明してくれていたと思う。高度な専門技術者・吉田巖とすれば、私の質問は随分と不躾な質問、失礼な話と受け取っていたのであろう。
こんなことから、吉田巖さんが亡くなられたとお聞きした時、先に示したように、何度かお話しした機会を思い返し、「吉田巖とはどのような人かを事前に調べ、もう少しレベルの高い話ができなかったものか」と、私は残念と思う以上に後悔した。
私の話はこのくらいにして、ここで吉田巖さんの経歴と偉業について逸話も含めて紹介しよう。ここでお断りするが、私が吉田巖さんに直接お聞きして取り纏めたものではなく、生前吉田巖さんと親交のあった方々からお聞きし、入手可能な多くの関係資料を調べて、それらを私なりに解釈した結果である。このようなことから、今回話す吉田巖さんにまつわる話の詳細を確認したわけではないので、多少の誤りや解釈の違いはあると思う。そこは、未熟者、恐れを知らない髙木の戯言とお許し願いたい。
本稿を読まれて吉田巖さんに興味を持たれた方は、吉田巖さんと親しかった方に、私の話した内容の確認と裏に潜む真実を含め聞いていただきたい。そして、吉田巖氏が持っていた真の技術、知見、経験値などを学んでほしい。