鉄道構造物
まず鉄道構造物の耐久性とメンテナンスに関して、話をしたいと思います。今、50年を超える構造物が増えて、みな寿命を迎えてしまうというような話をする人もいますが、構造物には比較的、短い期間で劣化するものもあり、また100年を超えても健全なものもあります。この古い構造物の状況をまずは知ってもらいたいと思います。古い構造物を知るために、鉄道の建設の歴史を少し紹介します。
1.概要
鉄道は1872(明治5)年に新橋―横浜間が開業し、2019年の今年で148年目、あと3年で150年となります。初期の構造物は国産の材料である煉瓦と木材で造られました。橋梁は、最初は木橋がつくられましたが、すぐに海外からの輸入の鉄の橋梁に交換されました。
大正時代から、国産のセメントでのコンクリート構造物や、輸入材とともに国産の鋼を用いた鋼構造物が造られています。明治時代に造られた有楽町駅付近の赤レンガの高架橋(写真-1)、大正時代に造られた神田駅付近の鉄筋コンクリート高架橋は初期の国産材料が使われた構造物です。大正から昭和にかけて、全国で盛んに鉄道建設が行われ、多くの構造物が造られています。
その構造物は経年ほぼ100年となっており、今でも多くが使われています。関東大震災までは、耐震設計は行われていないので、今の基準で不足する耐震性などは、補強工事が順次されてきています。これら100年近い経年の構造物を見ると、経年のみで劣化するものは少なく、劣化した構造物を見ると、多くは原因があることがわかります。
2.鉄道建設の歩み
2.1 初期の構造物 (1)橋梁
新橋―横浜間開通後すぐに、複線化の工事と、当初の橋梁は木橋であったものを鉄桁への改築が1881(明治14)年まで行われました。六郷川橋梁も、木橋から錬鉄製の鉄桁に交換されました。イギリスで製作され、1877(明治10)年に開通式が行われています。
大阪―神戸間の橋梁も武庫川、神崎川、十三川の3橋のみ鉄橋で、残りはすべて木橋でした。1878(明治11)年ころから順次錬鉄性の鉄橋に取り換えられました。これらはほとんどイギリスで、設計製作されたようです。
大垣―名古屋間の揖斐、長良、木曽川の橋梁はイギリス人のお雇い外国人ポーナルが、設計し、製作は1886(明治19)年にイギリスにて行われています。 1892(明治25)年までは、鉄道橋梁はイギリスおよびドイツの技術を導入し、様々な橋梁が架設されました。初期の木製の桁は次第に姿を消し、錬鉄製から、錬鋼混合の桁へ、さらに鋼製の桁へと変わってきました。お雇い外国人ポーナルがスパン6.1m(20フィート)から24.4mまでの鋼板桁を設計し、これが1894(明治27)年に鋼板桁定規として定められました。
(2)高架橋
上野―新橋間の高架橋は、お雇い外国人のルムシュッテルが設計した径間8から10mのレンガ造の連続アーチ橋を基本に設計されました。工事は1900(明治33)年に着手しましたが、日露戦争などによる中断もあり、1910(明治43)年に有楽町駅、呉服橋駅が開設され電車運転が始まっています。1914(大正3)年に東京駅が開業し、東海道線の起点が東京駅となり、呉服橋駅は廃止されています。杭基礎の杭には松材が用いられています。
その後、1919(大正8)年に東京―万世橋間の営業が開始され、中央本線の起点も東京駅となりました。この工事は、1915(大正4)年に着手しています。この高架橋は、鉄筋コンクリートアーチが基本形として採用されています(写真-2)。これは支間が9.6mの連続アーチ橋です。また東京―神田間では支間5mあるいは5.7mの鉄筋コンクリートの単版桁や、ラーメン構造の構造物も造られました。鉄筋コンクリートではあるが、それまでのレンガと外観をそろえるように、表面は煉瓦で化粧されています。
この後、都市部の高架橋は鉄筋コンクリートアーチから鉄筋コンクリートラーメン構造に移っていきました。また東京―神田間の外濠橋梁にメラン式鉄筋コンクリートアーチ橋(スパン38.1m)が採用されています(写真-3)。これらの高架橋ならびに橋梁の設計は、大河戸宗治や、阿倍美樹志がおこなったもので、今も使用されています。ここでの杭基礎の杭は鉄筋コンクリート製が用いられています。
写真-2 東京―神田間のアーチ式高架橋(レンガで化粧されている)
写真-3 外濠橋梁のアーチ橋(中央線の重層化工事で、当時の橋塔など撤去されています。
なお撤去した橋塔は写真-4のように東京駅の北口を出たところに置かれています)
写真-4 外濠橋梁にあった橋塔
(3)基礎
橋梁の基礎は井筒が中心で、レンガ積みが用いられていましたが、1891(明治24)年の濃尾地震の後、耐震性を高めるため鉄筋コンクリートへ変わっていきました。