阪神大震災への対応
構設の役割と同様に復旧案を作る
その後東京に戻り、首都圏の工事を担当する事務所と本社を兼務していた折、1995年に兵庫県南部地震(阪神大震災)が起こりました。3日後に私が団長でJR東日本から、JR西日本に応援に行くことになりました。新幹線を造るときに仙台に全国から人が集まっており、工事を終えて皆元の職場に帰っていました。JR西日本にも、仙台で一緒に働いて知っている多くの人がおりました。国鉄時代は災害があると、現場に行って復旧方針を提案するのは、構造物設計事務所の役割でした。各JRに別れたといってもまだ、しばらく前まで一緒に仕事をしていた仲間です。被害箇所の調査を依頼され、調査しながら、国鉄時代の構造物設計事務所での役割と同様に復旧案を作り、翌朝にJR西の幹部に説明しました。その方針で復旧することになりました。
組織の技術力を維持することの難しさ
構造技術PTから構造技術センターへ
構造物設計事務所は、JRに分割された時に無くなり、そこにいた技術者は各JRや鉄道総合技術研究所、鉄道運輸機構などに分かれていきました。建設と同時にメンテナンスの相談を受けていた組織が無くなると、造った構造物の問題がわからなくなり、また、トラブルが生じた時に建設時の情報を現場で知らないままでの判断となります。JRになってしばらくすると、そんな環境では組織の技術力を維持することが難しいと感じました。問題が生じた時に相談する箇所がなく、現場の知識での判断となり、また問題を組織として認識できないので問題の対応が全社的にできないのです。
その後関係者に働きかけ、臨時の組織である構造技術PTを JR東日本につくり建設とメンテナンスの情報が集まるようにしました。阪神大震災の復旧に、この組織のメンバーと、国鉄時代の構造物設計事務所のメンバーに集まってもらい、復旧の設計図の作成をしてもらいました。その後にJR東日本の正式組織として構造技術センターとなり、建設からメンテナンスまでのすべての技術情報の集約と技術相談にのるようになりました。新潟県中越地震、東日本太平洋沖地震などの災害時にはこの組織からすみやかに復旧案を出すようにしています。また10年あるいは20年に1回の構造物の点検には、この組織からのメンバーも加わっておこなっています。またこの組織にはJR北海道やJR九州からも定期的に人を受け入れては帰すことをしています。同様の組織はJR西日本にもできています。
今はJR東日本コンサルタンツ(株)が主な所属ですが、社外の技術的ないろいろの相談にものっています。今一番多いのは、インドの新幹線(ムンバイ―アーメダバード間500km)の設計にかかわる事項となっています。
この道路構造物ジャーナルNETは、道路構造物と名がついています。道路と鉄道のメンテナンス上の大きな違いは、荷重に対する管理と、雪対策にあると思います。鉄道は、荷重を管理しており、設計荷重を超えるものを通す時もありますが、事前に安全を確認して通すこととしています。また、雪対策は除雪、お湯をまいて溶かす、雪をためる構造にしての対応など、地域によって対応を変えていますが、融雪剤(塩)をまくことはしていません。道路は荷重を管理できないことと、融雪剤による雪対策が行われることが大きく違い、道路橋はそこが構造物に対して鉄道より過酷かと思います。
編集者より以前から、経験を書くように言われ続けて、だいぶ断っていたのですが、記憶のあるうちにということで、メンテナンス、設計、施工、災害復旧などについて、次号から私の経験を中心に、個人的な見解を含めて述べさせてもらいたいと思います。
(2019年9月1日掲載、次号は10月1日に掲載予定です)