-分かっていますか?何が問題なのか- ㊾高齢橋梁の性能と健全度推移について(その6) ‐将来に残すべき著名橋になすべきことは‐
これでよいのか専門技術者
(一般財団法人)首都高速道路技術センター
上席研究員
髙木 千太郎 氏
私にとって、『昭和』から『平成』、『令和』と元号が変わることは?
私の連載、“これでよいのか専門技術者”49回目にあたる本号が読者の目に触れる今日は、『平成』から新元号の『令和』に替わった、節目の令和元年5月1日である。
ここで、連載には関係ないが、私自身の過ぎ去った『昭和』、『平成』の時代を私が、どのように橋梁技術に触れ、捉えてきたかについて話しをしよう。
『昭和』は、『平成』と年数だけを比べるとみると、30数年長い。今や忘れ去られた『昭和』とは、自らを振りかえって現象に捉えて考えてみると、私にとって内的な“潜伏期”から、外的に広がる“進展期”の初期にあたったと思っている。“潜伏期”と“進展期”の境界が1982年(昭和57年)であろう。現在の自分が、本連載を含む、橋梁に絡む仕事や大学での教鞭をとれるのは、特に『昭和』の後半から『平成』にかけて、こつこつと学んだ知識と経験、それを基に打って出た勇気が大きかったと感じている。
公務員になったばかりの自分は、大口を叩いた割に(私の大口とは、よせばいいのに「橋梁が専門で生涯の仕事と思っているから、担当業務は橋梁しか考えられない考えてください」と良く口にしていた)、何を成すべきかに悩み、仕事においても試行錯誤し、上司から何度も叱責された時代が私の『昭和』である。
そんな生意気な社会人駆け出しの時代を経て数年後、庁舎の倉庫にうず高く積まれた設計図書と資料の山、特に図‐1に示す、見たことも無い専用書庫に収納された、図-2に示す大量のアパーチュアカード(マイクロフィルムをカードリーダー化したような物)に触れる機会が訪れた。先に示した大正年間から引き継いだ貴重な資料の山とアパーチュアカードとの出会い、それが技術者として私の大きな転機となったと言える。それまでの私は、整備する構造物の設計や積算、施工管理する機会は数多くあったが、如何に効率良く業務を熟すかを第一と考え、仕事の中身には全く興味が湧かなかった。当時の思い出は、新人の時、設計図面を朝から晩まで青焼きし、手は青く、目が揮発性のインク? で真っ赤になった事ぐらいである。
何が転機であったか、それは橋梁等の被災である。私が、特別な意欲もなく平穏な日々を過ごしている時、全国に重大な被害をもたらした台風10号(昭和57年7月)が東京にも襲来し、大変なことになった。その時、市街地から山間部までの数多くの橋梁や護岸が被災し、災害査定のために被災した橋梁の竣工図書を探さなければならず、私も朝から晩まで先の倉庫に籠ることとなった。
最初の内は、書類探しは面白くないと、全く熱が入らなかったが、3日間資料と格闘している内に、何時しか系統立てて資料を見るようになった。これが私にとって良かった。ここで私は、東京都には、明治、大正から昭和の三元号にかけて建設された橋梁が、山ほどあることに気がついた。これら架け替えされずに残された橋梁と、既に架け替えられた橋梁を対比して見てみると、大きな真実が隠れていることに気がついた。それは、残された橋梁の多くが、架け替え困難との理由で、朽ち果てるのを待つように使われ続けていることであった。裏を返すと、言い方は悪いが架け替えた橋梁は、何時でも架け替えられる環境にあったと言うことなのだ。
例えば、主要な鉄道を跨ぎ、主要幹線道路に架かるA橋が代表的な事例である。A橋と同年代の橋梁で、健全度が同程度の橋梁は、条件が良ければ殆どが架け替えられている。災害復旧の業務が一段落した後、A橋のような架け替え困難橋梁の資料を調べ、過去に試行的に行った点検資料などを見つけ出し、ふと気がついた。当時は全く社会の話題にも上らなかったが私は、国内でメンテナンスが近い将来に必ず課題となり、一日も早く手を付けるべきだと密かに確信した。まあ、私は偉そうに確信したと言ったが、過去を振り返っての発言なので、手前味噌的発言と読者に捉えられても致し方ないが。このような事から、私自身必ずメンテナンスが必要な時期が来ると思い込み、自分なりの考えでそれに取り組み始めたのが『昭和』であった。
今当時を振り返って考えてみると、暇があると倉庫の中をかき回し、あらぬ考えを持ち発言する私は、上司にとって、あちらこちらに手を出す厄介者であったのかもしれない。当時は疎んじられていたかもしれないが、先の昭和60年代末数年に私が取り組んでいたことは、後の東京都において、大きな成果であると自負している。当時、私が手探りで数多くの資料を分析し、静的・動的載荷試験、応力頻度計測と疲労寿命予測、数多くの非破壊試験試行、データーベース化、点検要領策定など、いずれもメンテナンス初期の成果として評価され、未だ朽ち果てることはない。
振り返って自らの技術者経歴を分析してみると、私のベースが創られたのは、元号『昭和』が終わる前7年間であったと言える。特に、最後の昭和62年、63年は、管理橋の定期点検を5年に1度の頻度で、独自の『橋梁の点検要領』によって開始した年でもあり、生涯忘れることはない。これも不謹慎と怒られるかもしれないが、もしも、昭和天皇が崩御される年が1年早まっていたならば、私自身、違った道を歩んでいた可能性が高い。それは、私が組織内で打って出た、メンテナンスの扉を開ける種々な行為は、数年先送りされた可能性が高いからである。
まさに、1987年(昭和62年)が私のターニングポイントであった。1982年(昭和57年)から5か年かけて私が積み上げたメンテナンスへの道、中でも、橋梁点検を組織に認めさせたことが大きい。私が、組織の経理部門や主計部に、点検の外部委託に関係する予算要求資料を説明し、レールに乗せた正にその時、社会情勢が急変する直前の1987年(昭和62年)9月であったからだ。それまでは、メンテナンスと言えば、義務的経費・一次経費(東京都ではこのように呼んで、扱っていた)が主で、投資的経費・二次経費にはメンテナンスは全くなじまず、定期点検を外部委託する考え方は全く無かった。
当時行っていたのは、道路橋及び横断歩道橋の落橋防止構造設置事業(昭和50年代、全国的に国策として行った落橋防止構造設置事業、写真‐2は代表的な主桁連結構造)や塗膜の塗り替え工事が殆どであり、構造物が経年で劣化する考えも無かった時代である。新たな首都東京の事業は無いか、国内の先駆けとなるような事業は無いか、斬新なアイディアと評価されるような提案は出来ないものかと思い巡らしていた時代である。高度経済成長期まっただ中、予算も増え、無風状態であったのが私には幸いした。私が提案した、定期点検執行予算の概算要求が完了した9月末に、昭和天皇の体調が急変され、組織全体が臨戦態勢となった。お分かりと思うが、東京都に中央官庁があること、首都であること、天皇陛下が住まわれている皇居があることなどから、天皇陛下の体調悪化は東京都において最重要案件であり、組織内は予算要求説明どころではなくなったからである。8月末からの2週間がまさに境目であった。ここで、社会基盤施設には全く関係が無いが、間をとって日本固有の年号が替わることに触れて少し述べることとしよう。
元号(年号)が『平成』から『令和』に替わることになったのは、平成天皇であった明仁天皇が自ら退位を望まれ、政府を始め多くの国民が、高齢で日々激務をこなされる天皇陛下のご心痛を酌み、皇室典範にはない生前退位の意思に納得した結果であると、私は解釈している。私は、天皇崇拝主義者でもなく、日本の歴史にも詳しくはないので、敢えて私が、元号が替わることについて説明することではないとも思う。しかし私は敢えて今回、私が2度経験した元号が替わることについて、自らの体験も含めて説明したいと思った。
その理由は、第一は陛下の体調悪化の時期がずれれば私の提案は闇に葬られたであろうし、第二は天皇陛下が崩御され、年号が替わることが同時になると、私の経験上「これは大変な事だ!」と痛感したからである。私が敢えて今回、元号を含めた皇室関連のことを話すのは、今回を逃すと、話す機会が二度と無いと思ったからである。読者の中にはこれから私が話すことに、「そんなこと知っているよ。髙木さんが言っていることは、真意が違っているよ。そうではないのだ、表面ばかり見ていては分からないよな・・・・・」と思われる方が数多くいるとも思うが、多少の誤りは筆者である私に免じて、目を瞑って読んでもらいたい。行政の末端で業務を熟していた私の体験談を基に、読者の多くの方々が知らない事実を、少しでも分かっていただけるよう話を進めよう。まずは、道路橋には全く関係のない生前退位について調べた結果から始める。
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