道路構造物ジャーナルNET

-分かっていますか?何が問題なのか- ㊽高齢橋梁の性能と健全度推移について(その5) ‐将来に残すべき著名橋になすべきことは‐

これでよいのか専門技術者

(一般財団法人)首都高速道路技術センター
上席研究員

髙木 千太郎

公開日:2019.03.31

『田端大橋』 当時としては珍しい全てがすみ肉溶接の全溶接道路橋
  国内初の大型電気溶接による全溶接橋

 次に、溶接による板継ぎができるようになった昭和初期の道路橋について考えてみよう。戦後になると、高度経済成長期の到来とともに、道路整備が急速に進み、橋梁大量建設の時代に突入することとなった。鋼部材の製作技術も大量製作の需要に応えるように、軍艦製造技術で培われた溶接が鋼橋にも導入され、工場での部材組み立てがリベットから溶接に代わった。戦後産まれの私が、戦前に設計・施工された稀有な溶接構造の道路橋に触れることができたのは、『田端大橋』である。
 図‐7に『田端大橋』の架かるJR山手線の田端駅前付近の上空写真を位置図として示した。『田端大橋』は、JR山手線を跨ぐ跨線橋で、当時としては珍しい全てがすみ肉溶接の全溶接道路橋で、戦前の1935年(昭和10年)建設である。『田端大橋』が建設される以前は、現在とほぼ同位置に鉄骨トラスの江戸坂跨線橋が幅員4mの人道橋として架かっていた。『田端大橋』の橋長は、135.0m、総幅員13.8m、道路幅員11.0mで、かの有名な田中豊の門下生である稲葉権兵衛が設計者である。


図-7 新田端大橋と田端ふれあい橋(旧田端大橋)位置図

 写真‐8に建設直後の『田端大橋』、写真‐9に私が最初に触れた当時の容姿を示すが、構造形式は突桁式下路鈑桁3径間ゲルバーで、鋼重は591トンである。『田端大橋』の私の実感としては、非常に狭隘な道路空間であったとの印象である。その理由は、明治通り側、田端駅の反対側から『田端大橋』を通るには、鋭角的な交差点を曲がらなければならず、その先に、路面上に吐出した『田端大橋』の主桁に挟まれた狭隘な道路空間があったからである。私が実感した、車両からの『田端大橋』上の道路空間を画像が悪くて申し訳ないが、写真‐9に示した。このようなことから、技術的な知識の薄かった私は、『田端大橋』は架け替えるのが当然で、架け替え後は現橋を短期間で撤去し、田端駅の駅前広場を車両が停車できるよう拡張すべきと思っていた。技術力の無い私が、『田端大橋』が製作・架設において、卓越した技術力を駆使した国内初の大型電気溶接による全溶接橋であることを知ったのは、昭和57年(1983年)、組織内で『田端大橋』架け替え案がほぼ決まった時代である。


写真-8 田端大橋:昭和30年建設直後の状況/写真-9 田端大橋:昭和50年代

田島二郎教授が唱えた『田端大橋』存続論
 日本の橋梁製作・施工技術に与えた影響は計り知れない

 技術的な遺産として貴重な『田端大橋』を設計した当時は、まだリベット全盛期であったが、鋼材重量の軽減、橋梁外観を流線形美へ及び騒音対策などを考え、設計者の稲葉権兵衛の熱意で、材料の質が悪い時代にも拘らず、全溶接橋の設計・製作に着手したようである。溶接方法は、全てが電気溶接法によるすみ肉溶接とのことであるが、『旧田端大橋(田端ふれあい橋・人道橋)』を現役として使っている当時、何度か現地に足を運び、桁下、路面、桁内を見たが、稲葉権兵衛の魂を感じる溶接部分の詳細までは全く記憶にない。逆に私個人は、田端駅前の広場の狭さ、取り付け部の鋭角的に曲がる交差点と主桁で囲われた閉鎖的な車道空間だけが記憶にある。先輩から話は聞いてはいたが、歴史に残さなければならない橋梁として感じることは無く、『新田端橋』を架設した後旧橋撤去工事の大変な工事状況ばかりを脳裏に描いていた。
 このような旧橋撤去が正論となっていた組織内の状況において、『田端大橋』存続論が出始めた。存続論を強く主張していたのは、鋼橋部門では知らない人はいなかった、著名な埼玉大学教授・田島二郎教授であった。私が最初にお会いした時は雲の上のような存在で、先生からお聞きすること全てが、自らの技術力向上における血となり、肉となった。田島先生には、東京都として種々な委員会ではお世話になり、私も関係していた多摩川中流部架橋事業では橋梁形式選定委員会の委員長もお願いし、御茶ノ水の『田島構造橋梁研究所』に何度か伺っていた方である。田島先生のお話しでは、「『田端大橋』は、現代橋梁の原点、日本の技術力を示す貴重な全溶接橋梁である。国内では全溶接橋として2番目にあたるが、『田端大橋』のような大規模の橋梁としては日本初の鋼構造物で、将来の残さなければならない貴重な道路橋です。震災復興事業が終わろうとする昭和初期に、鋼材の質が悪かった時代に電気溶接を導入したこと、工場溶接だけではなく現場溶接をも導入したこと、・・・・・『田端大橋』は後の日本の橋梁製作・施工技術に与えた影響は計り知れない」とのことであった。
 私も溶接とリベット、高力ボルトの違いは分かってはいたが、それがどれほど大変なことかは、お恥ずかしい話ではあるが、昭和の末まで分からなかった。田島先生の強い希望と地元の要望から『田端大橋』は形を変え、JR田端駅前に今も残っている。しかし今、田端駅前に行くと当時の種々なことを思い出すと同時に、これで良かったのかと自問自答している。その理由は、『旧田端大橋(田端ふれあい橋)』が、全溶接橋であることが分かるような状態で使われていないことにある。先に示した狭隘な空間を創り出した主桁の上に、人道橋の路面を築造したことから、溶接部分や鋼主桁が全く見えないのである。これでは、何のために残したのか、歴史的卓越した技術を後の人々に伝承するために、敢えて『田端大橋』を残したのではないかと、残念な気持ちと同時に亡き田島先生に申し訳ないと痛感している。


写真-10 田端大橋:鋼主桁間にある狭隘な道路空間(左)
写真-11 田端大橋:すみ肉溶接による全溶接鋼道路橋(右)

 田島先生の話をして、思い出すことがもう一つある。東京港の港湾区域に架かる国内初の下路式ローゼ桁の鉄道橋『晴海橋梁』のことだ。田島先生は、臨海部の橋梁形式選定委員会を御願いした当時に、東京港港湾区域にある廃線となった晴海線に架かる『晴海橋梁』(東京鉄道遺産100に選定)を題材に語られたことがあった。昭和から平成に元号が変わる時期まで東京都港湾局専用線(深川線)として使われ、今はひっそりと赤さび状態で存知されている鉄道橋である。その雄姿を写真‐12に示す。


写真-12 晴海橋梁(昭和32年・1957年)・鋼下路式ローゼ橋

 田島先生は、「『「晴海橋梁』は支間長58.8m、活荷重は二つの車両重量を考慮したKS-16で設計し、主要鋼材は高張力鋼材ではないSM41材を使った、鉄道橋としては国内初の下路式ローゼ橋です。総重量約146トンを台船(ポンツーン)によって縦取り架設した貴重な橋です。必要が無くなれば、撤去する考えは分からない訳ではないが、私は是非皆さんの力で残してほしい」とのことであった。田島先生は当時、真っ赤に錆びた『晴海橋梁』を指して、将来に残すべき橋梁との話をされていた。この話を田島先生からお聞きした時、現在供用している臨海新交通・ゆりかもめの延伸計画を検討していた時代でもあった。ゆりかもめは、展示場正門駅から延伸し、今最終駅となっている豊洲を経て、今話題の多い、勝鬨(かちどき)まで延伸するルートである。
 その際私は、先の『晴海橋梁』を何とか活用できないかとの話を、設計担当者にした。私が話す、この夢のような話を実現する為には、種々検討が必要とは思う。しかし、もし実現するならば先の『田端大橋』のような残し方としないことを、私は強く要望したい。リベット橋から全溶接橋までの話、特に余談が長くなったが、ここらで本題の構造形式が健全度に影響するかの話を始めよう。今回は、プレートガーダー橋・桁橋編である。

次ページ「プレートガーダー橋・桁橋編を構造ごとに説明」

ご広告掲載についてはこちら

お問い合わせ
当サイト・弊社に関するお問い合わせ、
また更新メール登録会員のお申し込みも下記フォームよりお願い致します
お問い合わせフォーム