はじめに
平成28年7月30日(土曜日)、「橋の博物館」として多くの人々から愛されている隅田川で第39回隅田川花火大会が開催される。この記事が掲載される時には、東京の空を彩る花火があがり、“たまや~!”“かぎや~!”の連発であったか、涙雨の降りしきる中、多くの商売人とテレビ局の期待を裏切って中止(都知事選挙のために順延なし)のどちらかとなっているはずである。
さて現在の隅田川花火大会は、1978年(昭和53年)から隅田川(桜橋と言問橋の間、駒形橋と厩橋の間2か所で花火が打ち上げられる)で毎年7月の最終土曜日に行われる都内で開催される著名な花火大会の一つである。隅田川で行われる花火大会として歴史は古く、1961年(昭和36年)まで「両国の川開き」として江戸時代から続く市民に愛されるビッグイベントであった。江戸から東京に引き継がれた「両国の川開き」も隅田川の護岸改修や交通事情の悪化に伴い中止となり、その後16年間隅田川での花火大会は開催されなかった。
歴史を引き継ぐ隅田川での花火大会開催は、私の記憶では昭和50年代の初めから何度となく浅草周辺の旦那衆から浅草周辺の活気を取り戻す趣旨から強い要望があったと聞いている。その要望が実現したのは、隅田川の左岸にあるアサヒビールの吾妻橋工場跡地再開発が始まった頃に地元である浅草にからむ隅田川に人道橋「桜橋」を架けた墨田区、台東区からの要請もあり「隅田川花火大会」と名称を変えて開催が決まったと記憶している。そもそも隅田川は、古くは江戸市民、近年は東京都民にとって愛着を持つ貴重な河川である。その理由は、江戸時代に遡る。江戸時代の隅田川は、上流では荒川、江戸市街地では大川と呼ばれ、貴重な水路及び水辺空間として多くの人々から愛されていた。しかし、大川は、一度台風等で荒れ狂うと江戸の町を水浸しにすることも多々あった。そこで、国は、1910年(明治43年)の大水害を契機として、荒川の流れを大きく変える荒川放水路の建設を翌年の明治44年に始め、1930年(昭和5年)に葛西を河口とする新たな河川が完成、その後は、最上流の岩淵水門管理橋から、約24km下った浜離宮付近の河口までが隅田川と呼ばれるようになった。
さて、話は「隅田川花火大会」に戻るが、開催決定は、驚くなかれ、都政を大赤字に追い込んだ美濃部都知事(1967年~1979年)の基でくだされた。花火大会開催がほぼ本決まりとなった前年の1977年(昭和52年)、東京都庁内は大変であった。何故隅田川で花火大会を開催しなければならないのか?東京都の厳しい財政状況で花火大会に関連する費用が捻出できるのか?東京都は何をすればよいのか?・・・開催に向けた種々の議論、これは当時雲の上集団、政治家と東京都幹部の話である。そうこうしている内に、我々には全く関係のない雲の上の空中戦で開催も、東京都からの支援体制も決まった。我々実務として花火大会を支援する立場の職員としては、どこの場所から花火が打ち上げられ、何処にどの程度の人が集まるのか、花火大会開催する周辺の道路や隅田川を横断する道路橋は通行止めにするのか、しないのか、車両や人の流れをコントロールする警視庁は本当に協力してくれるかなど・・・課題は山積していた。
決定は「隅田川花火大会実行委員会」で以下のように決定された。隅田川周辺の横断歩道橋は通行止めにするが、打ち上げ会場に近い、桜橋(区の管理)、言問橋(国管理)、吾妻橋と駒形橋、厩橋、蔵前橋(いずれも東京都管理)は、絶好のビューポイントとして車両は止めるが人は通すとのことであった。決定する立場は楽だが、橋を管理している立場としては大変なことである。当然、隅田川を横断する道路橋と隅田川の護岸には臨時の横断抑止柵を設置することになった。さて、人止め抑止柵の構造と発注方式で延々と議論。花火を鑑賞に来た人々が河川等への転落するのを防止する柵であるから、それなりの強度は必要であるが、あまりに強固に設計すれば、設置撤去の時間や費用が膨大となる。要は、花火大会の直前(直前と言っても2週間程度前から)に設置し、花火大会終了後に即撤去が必要十分条件である。私としても、橋梁工事の仮設は設計したことは多々あるが、大量の人が押し寄せる抑止柵の設計など行ったことは一度も無かった。それも、花火大会に来る観客を傷つけない形状を要求されたのである。結論は、抑止柵への作用する荷重として、橋梁用防護柵(道路橋)で規定されている作用荷重(頂部に250kgf/m)を基に決定、構造は単管パイプと砂袋の組み合わせである。
設置場所は、人が大量に押し寄せても直接隅田川を覗き込むことが出来ないように、また、不測の事態が起こっても最悪高欄に多くの人が寄りかかることのないようにとの理由で歩車道の境界に抑止柵を設置することとした。抑止柵の構造決定はすんなり決まって良かったが、花火大会開催当日の対応を聞いてびっくり。担当する職員は、横断する全ての橋梁に監視員として打ち上げ前から観客がいなくなるまで配置するとの指示である。まあ、職務で配置されるのであるから、人混みなしで自由に花火鑑賞ができると考えれば羨ましいと思う人もいるかもしれないが、第一回の大会から何度も参加した身としては・・・? 現在、隅田川花火大会に関係している多くの職員は、多分何故このようなこととなったのか理解できないままその対応に追われていると思う。国内で数多く開催されている種々なイベントは、今回紹介した「隅田川花火大会」と同様な背景と行政職員の協力の基行われているはずである。忘れてはならない。花火大会に関係する隅田川を横断する道路橋には、国管理の橋梁(言問橋と両国橋)もある。しかし、国管理の橋梁に設置する花火大会のための抑止柵は、東京都が占用許可を国に申請し、東京都が設置するのである。それはなぜか? 花火大会開催が決まった時に国へ説明に行った時の対応は、冷たかった。
「隅田川花火大会は、東京都の希望で実行するのであるから、当然、国(当時建設省)には設置する義務はない。東京都から抑止柵設置の占用許可願いを出せば、対応しますよ。」である。であるから、当然、国道の花火用抑止柵は、東京都に費用でお願いして設置している。何かおかしくはないだろうか?当然、隅田川の河川上における交通規制(船舶の航行、屋形船などが想像以上に2つの打ち上げ会場に寄りたがる)も河川管理者である東京都から河川管理船を出して対応となる。要は、花火の打ち上げやテレビ放映には全く関係していないが、下働き的に隅田川花火大会を支えているのは基礎自治体であることを忘れては困る。愚痴を言っていても始まらないのでここらで本題に入るとしよう。今回は、何とも奇妙で可愛そうな道路橋の話、第一話である。