-分かってますか?何が問題なのか- ⑬「有事に機能する真の技術者集団とは―現場で得る知識は100の技術書を読むより有益―」
これでよいのか専門技術者
(一般財団法人)首都高速道路技術センター
上席研究員
髙木 千太郎 氏
2.災害復旧こそ真の技術者の能力を問う
国が補助する災害復旧事業とは、自然災害によって被災した公共土木施設を迅速・確実に復旧することである。中でも私の関係してきた国土交通省河川局が管轄する災害復旧事業の特徴は、様々な公共土木施設(河川、海岸、砂防設備、林地荒廃防止施設、地滑り防止施設、急傾斜地崩壊防止施設、道路、港湾、漁港、下水道、公園等)が対象で、通常事業の補助率が55%程度であるのに対し、67%(2/3)と高率で、年間の災害復旧事業費が標準税収の2倍を超えると補助額が100%国費になるなど地方への手厚い補助が特徴と言える事業である。被災した施設の復旧は、原形復旧が原則となっているが被災した原因を除去することが基本であることから、再度被災を防止するために「原形復旧不適当」もしくは「原形復旧困難」の理論が成り立てば、施設の改良が大きく可能となる。また、災害復旧事業と同時に施設改良復旧事業を行うことが可能で、専門用語「関連」によって改良の幅はかなりの範囲に拡大することが可能となり、災害復旧事業を活用することで社会基盤施設の多くは大きく改良することが可能と言える。社会基盤施設が自然災害によって被災した時に災害復旧事業を有効に活用するか、無駄にするかは被災した地方自治体の技術者の能力次第と言っても過言ではない。それでは、災害復旧にあたる技術者について考えてみよう。
3.被災した施設の復旧に必要な技術者とは?
異常な天然現象を起因とする自然災害は、発災に関して事前にある程度予測が可能な場合もあるが、基本的には何時起こるか分からないのが一般的である。自分の経験を基に自然災害に対応する技術者について話題を提供するとしよう。
自然災害としては、地震、火山噴火、台風、集中豪雨(ゲリラ豪雨)が対象で、それぞれ発災の量的な程度が規定され、災害復旧事業の適用条件を決めて行っている。
1)若手技術者の提案を上司が活かす
災害復旧として大きな経験を積んだのは、今から34年前の1982年(昭和57年)の豪雨災害である。この年は、東北及び上越新幹線の開業、赤坂ホテルニュージャパンで火災事故、日航機パイロットの精神状態不安定で、羽田空港着陸時に事故が起こるなど波乱の年である。8月1日の台風10号、9月12日の台風18号、10月8日台風21号と3度の大型台風来襲によって関東全域、特に都心部も大きな被害を受けた年である。
台風の直撃を受けた東京は、これまで経験したことの無いような雨によって都内の多くの河川が計画洪水位を超え、河川施設のみならず、河川を跨ぐ多くの橋梁が被害を受けた。都内の道路施設に関する被害状況の取りまとめを行っていた時、耳を疑うような報告が入った。都心と多摩を結ぶ主要幹線道路の所沢街道が空堀川を跨ぐ空堀橋の話である。報告では、「空堀橋の袂にある自転車屋から電話があり、店の横に架かる橋の上を自動車が跳ねるように走って行った。何かおかしいのでは?」との情報提供との事であった。現場事務所からの通報を受け直ぐに上司に報告したところ、その場で所沢街道・通行止めの処置と緊急調査を指示され現地の職員に対応を伝えたのは言うまでもない。豪雨の中30分くらい経過した後の報告で驚愕の事実が判明した。空堀川を跨ぐ道路橋が無い、流失したとの連絡である。要は、所沢街道を通行する乗用車?(自転車の店主情報)が流失しかかった橋を運よく跳ねながら飛び越えたようである。嘘のような本当の話である。私の話題提供は、その後の対応についてであり、その後行った行動が私の災害復旧対応スキルの基礎を築いている。
台風も過ぎ去り、天候が回復したところで現地調査に出向いた。現地を確認すると、確かに架かっていた橋が無い。走行していた車が水位を増した空堀川に嵌まり込まなかったのが不思議なくらいである。主要幹線道路であることから即日復旧、供用開始を幹部から指示され、関係者集まって検討を開始、どう考えても無理との当然の結論であった。その時、未だ橋梁技術者としての評価もほとんどない自分の頭にひらめいたことがあった。急場しのぎで仮設構台のようにH鋼材を組み合わせれば設計も軽微で済むし、施工も短期間で済むとの安易な提案(私はそうは思っていないが)である。検討会で恐る恐る手を挙げ、自分の考えを説明すると、「そんな事が本当にできるのか、主要幹線所沢街道だぞ!」「髙木君、君が説明している仮設構造物が事故を起こしたら誰が責任を取るんだ!」後押ししてくれると期待していた先輩までもが「職員が自ら設計、施工したのは昔の話、今は無理、無理!」との反対意見、橋梁会社への問い合わせ、依頼の意見が主を占めた。しかし、大東京都をしても現実は厳しい。全国いたるところで被災している状況下では少なくとも2週間から3週間はかかるとの回答である。しかし、東京都のメンツとして、主要幹線の橋梁が流失し通行止め2週間の報道は絶対避けたい、との意見が幹部から出され、短時間での供用開始が命題となった。1時間ほど検討会が経過した時に部長が発言、「髙木君の説明に信頼性が足らないかもしれないが、代替案が無ければ短期で構築できそうな簡易橋梁を試してみようじゃないか」と私の提案を後押し。それからが、大変である。私の拙い知識と経験で簡易計算を開始した。提案した仮設の架台(橋梁とは恥ずかしくて言えない)は、右岸側橋台は枕梁方式、左岸側橋台は、道路に多少の縦断勾配があることからH鋼材を打ち込みタイロッドで控えを取る構造を考えた。上部構造は、枕梁の上をH鋼材で渡し、床版として使う覆工板をボルトと溶接で固定した構造とし、その晩には鋼材断面及び数量算定及び図面が描けた。
しかし、またもや大きな問題に直面する。私が算出したH鋼材と工事について「そのようなストックはあるわけ無いし、今から発注しても直ぐには入手は無理、施工だってできっこない、他をあたって下さい。」との素っ気ない地元業者の返事、ため息がでる。私の提案を後押ししてくれた幹部の落胆する顔が目に浮かぶようである。ここで諦めないのが私の長所であり、短所でもある、何時も話す『博打根性』である。今であれば、全体無理であろうし、禁じられていることかもしれないが。以前建設事務所で種々なお願いをして助けてもらった大手ゼネコンK社の課長に電話、「災害対応で忙しいのは百も承知で連絡しました、お願いがあります。これからファックスするH鋼材、明日にでも東村山の災害現場に持ち込んでもらえませんか?」と依頼、当然ファックス送信。直ぐに返事の電話、「髙木さん、これは無理だよ、仮設材が不足していて全国何処でも困っている。我が社も当然、あちらこちらから緊急工事の依頼がある。髙木さんの熱意は分かるけど無理だね・・・」当然何時ものごり押し「○○さん、助けてください、吉報を待っています。」翌朝、連絡があり「髙木さん、何とかなりそうですよ。今日の夕方までには持ち込めそうですが、打設する機械やトラッククレーンありますか?」地元業者には無いと聞いていたので「全部含めてお願いできますか?」しばらく沈黙の後に「高いですよ。」・・・との会話があったかは定かではないが、数日後には、私の誤っていたかもしれない計算と図面を基に事例の無い簡易橋梁が完成、とりあえず都内の主要幹線・所沢街道の機能は確保された。供用開始後にK社の技術者に聞いた話であるが、やはり私の設計を心配して再計算したそうである。私が計算した結果は、一部に誤りはあったが大きな修正の必要はなかったとの事であった。
その後、空堀橋は、災害復旧事業を適用、私の簡易橋梁から信頼できる仮橋、本橋と架け替えられた。今は、武蔵野の大地を流れていた荒れる空堀川も大断面の新空堀川へ付け代わり、苦労して災害復旧で勝ち取った道路橋の姿は今はない(左上写真 写真-3 今は無き空堀橋の跡)。ICT化の進む現在、若手の技術者は私のような行動をとることは無いのかもしれないが、緊急時の対応が必要となる事態は必ずある筈である。その時、真の技術者の実力が試されるのである。
次にもう一つ話題を提供する、請負会社の監督や作業員との一体感が重要であるとの話であるが、私の自慢話では無いのともう時効だから話せるのである。
2)技術者同士の信頼感と大きな成果
平成12年(2000年)に起こった新島・神津島近海地震から三宅島噴火における災害復旧の話である。
三宅島の火山噴火は、2000年から遡る事17年前の昭和58年(1983年)に経験はしていたが若手技術者(入都9年)である自分には全く出番はなく、3年後の昭和61年(1986年)の伊豆大島・三原山噴火も同様であった。島が噴火するとは大変な事で、最悪全島民避難となるとの話や、溶岩流の上に避難道路を施工、まだ熱いアスファルト路面上に緊急車両を走らせ避難路を確保したなど勇敢で能力ある先輩の活躍等、当時、災害対応にあたる第一線の行政技術者の判断力と決断力の凄さにただただ感嘆している自分がそこにいた。しかし2000年となると、私も社会人となって27年が経過、周囲からも技術者として認められるポジションとなり、先に紹介した57年災の貴重な体験も忘れかけていた時である。
平成12年7月1日に震源地を新島・神津島沖とするマグニチュード6.4の地震が襲い、新島と神津島に大被害をもたらし、三宅島も火山活動が活発化した。その後何回となく大きな揺れを伴う群発地震が発生、新島及び神津島の復旧を的確に行う目的で最前線に判断力のある技術者を選別、各島への派遣となった。
私はそもそも社会人に成った時から島が嫌いである。その理由は、火山の噴火口のようなところに人が住むとは思えないし、いくら景色が綺麗で空気は美味しいかもしれないが、体質的に島に生活するのが不安で嫌なのである。しかし、災害が発生している時に、私のような身勝手な考えや行動は行政人には許されない。当然、私も災害派遣グループの一員として選択され、神津島へ派遣となった。神津島に近づくと、以前目にしていた標高571mで頂上に美しい高山植物が生育する天井山の白色で美しい山肌が一変しているのに驚き、斜面のあちこちで崩落している状況を目にしてこれは大変な事になっていると感じた。島内で行うことは、被害状況の調査と応急復旧工事の推進である。作業場は島内の体育館を仕切って仮の事務室を創り、朝から晩まで外業の調査と内業の算定作業の繰り返しである。第一に行う現地調査は、二次災害防止するために車両はほとんど使えず、歩いて島内の崩落している個所を調べて歩かなくてはならない。夏であるから蒸し暑くて、直ぐに汗が噴き出す、体力勝負である。連日昼間は島内の道路をくまなく調査、何日で復旧できるかの算定を夜になると行った。その結果、応急復旧工事で島内道路の交通機能復旧に16日間と算定し報道発表へ、約束通り7月18日には片側相互通行での供用開始となった。
一方別部隊の行った新島は、神津島と同様に主要道路は1路線であるが、新島村若郷から新島港に至る路線と若郷漁港へ通じる路線がある。7月16日には被害の全容が明らかとなり、新島港と空港のある本村地区から若郷漁港のある若郷地区への応急復旧工事算定となった。神津島の先行した実績から、新島の応急復旧も同様と判断し、経験を活かせば確実に施工が可能と結論付けた。しかし、群発する地震の影響による斜面崩壊の増加と応急復旧計画の甘さが露呈、2週間での復旧を公言したにもかかわらず、仮開放は、1週間以上延び8月7日となってしまった。島は違うが、この差は何が原因かである。一つは、現地調査の甘さが工期算定に大きく影響したこと、もう一つは、最も重要な業者(作業員)と行政側担当者に運命共同体のような一体感が欠けていたため生じた崩土撤去作業の遅れである。
神津島において、応急復旧工事がスムーズに進んだ日夜作業を行ってくれた島内業者と、私らとの一体感は不測の事態から生まれたものである。私が、神津島に入って直ぐに感じたことは、何か担当している業者が余所余所しい、熱意がない。業者の監督員は、私が声をかければ返事はするが、進んで計測の手伝いをすることは無かった。島に入って3日経過した昼、島の中心地で役場のある神津島港の裏側にある多幸湾に向かうと、湾に繋がる道路は崩落した土砂で塞がれている状態であった。同行した業者の監督に崩土を除去するバックホー手配(上写真 写真4 神津島での崩土撤去作業)を指示、翌日塞いでいる土砂を除去することとした。島内業者と斜面の崩土撤去を開始したところしばらくして、余震で島は大きく揺れ、当然斜面から落石、慌てて全ての作業を中止し安全な場所へ退避した。しかし、命が大事とその場から慌てて退避したために、作業中のバックホーのエンジンを止めなかったことが判明。このままでは落石によってバックホーは転倒、オイル漏れ炎上の可能性が高くなった。
島内業者の監督に「今、揺れがおさまったようだからバックホーのエンジン止めに行って」と指示すると「監督さん、私は死ぬのやだから」と即答。確かに分かる。でも私の立場としては困った。ここで私が無謀な行動を起こし、バックホーに向かって走り出すと、バックホーの作業員が後を追うように走ってきてエンジンを止め事なきを得た。翌日から業者の態度は急変したのは言うまでもない。地震が群発する状況下で危険を冒してまで作業を行うことは厳禁であり、私が指示した崩土処理は大きな誤りであったと思う。しかし、地震や台風などの有事の際に頼れるのは、工事を行ってくれる作業員と請負会社の技術者である。仕事を請け負う業者と発注者との一体感が無ければ良い仕事ができないのは当たり前である。良く聞く話であるが、机上でのプランを現場に持ち込み、作業員を人とも思わない技術者が多くいるとの陰口である。私の神津島での行動は、褒められた行動ではないし、事故が起こらなかったのはラッキーだけであったのかもしれない。しかし、バックホー事件以降、島内業者は種々な作業で嫌な顔一つせずに早朝から日が沈むまで私に協力してくれたのは事実であり、私のその後を創ったと今でも思っている。