3.勝鬨橋の跳開機能の休止理由とその後
勝鬨橋の最大の特徴である跳開は、1940年(昭和15年)から1945年(昭和20年)10月までの5年間は、原則一日に5回行っていた。しかし、勝鬨橋を通過する船舶の航行が減少するのに合わせるように1945年(昭和20年)11月から1963年(昭和38年)4月には3回に減少、同年の5月以降は午前7時の一回のみ跳開となった。その後、勝鬨橋の跳開を必要とする大型船舶の航行が無くなったことや晴海通りを通行する車両の急速な増加から跳開の停止が決定され1968年(昭和43年)3月に船舶航行を理由とした跳開は停止、その後1970年(昭和45年)11月の試験跳開を最後に現在まで一度も跳開されない「開かずの橋」となった。
写真-2 試験跳開した勝鬨橋
その後は、勝鬨橋を通行する築地市場への大型車両等への対策や損傷した部材があることから、跳開部の床版はコンクリート充填グリッド床版からパネルタイプの鋼床版への交換が行われている。
勝鬨橋周辺の環境は、20世紀から21世紀へと移り変わり、社会基盤施設への要求も「量」から「質」、「ゆとり」、「潤い」が重視され、求められる時代となった。1986年(昭和61年)に、今やライトアップ界のレジェンドである石井幹子さんに“ここ一番という時に打って出ていく勇気、博打根性”若気の至りによって直接電話、お会いして無理な注文を依頼、対岸のマンション等からの苦情等を受ける中、華々しく勝鬨橋での試験点灯を行い、その後の隅田川橋梁ライトアップの時代へと突き進むこととなった。
写真-3 ライトアップした勝鬨橋の夜景
平成年間に替わると、勝鬨橋を管理している東京都においても「先客万来 東京」として観光資源としての要求が都市基盤施設へも寄せられるようになり、跳開を停止している勝鬨橋も再跳開の動きが地元を中心に出されるようになった。当時の都議会においては、勝鬨橋の地元である中央区選出の立石都議会議員から石原知事への再跳開に関する質問が予定された。当然、管理する立場として知事に『再跳開は交通量等の問題から非常に困難である。』との答弁をと関連資料及び答弁案を作成し、知事の了解を得てブリーフィングが無事終わった。さて、本会議が始まった。
本会議での知事答弁は先に示した内容で進むと思っていたところ、石原知事は突然(この件に始まったことではないが)、『再跳開の話は面白い、勝鬨橋を開くことで暗い世の中がパッと明るくなる良い案だ』と答弁した。その瞬間、我々知事に説明した側は知事の態度急変に椅子から転げ落ちるほどびっくりし、今後どうなるのか不安が頭の中を巡った。世の中は考えた通りには進まない、特に、カリスマ知事を抱えた行政技術者は今も昔も大変である。このような経緯を経て勝鬨橋を正式に調査する機会がもたれ、跳開設備を含めて土木学会に調査を委託、現在に至っている。ここで、当時を振り返り勝鬨橋の跳開再開について効果等を考えてみる。
4.勝鬨橋再跳開の可能性と観光資源としての活用
2020年の東京オリンピック開催には、1964年(昭和39年)東京オリンピックが残した歴史的レガシーと2020年東京オリンピックが残そうとしている臨海部に広がる新たなレガシーの交点ともなる隅田川河口の勝鬨橋は重要なキーポイントであると考える。その理由は、オリンピック開催に合わせ勝鬨橋を再跳開するイベントを行うこと(その後も定期的に跳開する)は大きな価値を国内外に提供できると思う。その条件としては、勝鬨橋を通行する大量の交通処理が要であり、環状2号線・築地大橋の供用開始によって築地及び月島周辺に集中する大量の交通量を分散化することが第一である。
次に勝鬨橋の再跳開のもたらす効果について考えてみる。
勝鬨橋の再跳開は、単なる可動橋の跳開のみでなく、勝鬨橋を米国・シカゴのように産業観光としての活用を基本とし、イベント開催、勝鬨橋周辺の水辺空間活用等の事業活動を行うことが必要である。勝鬨橋を再跳開し、種々な新たな取り組みを行うことで隅田川河口部周辺への入込客は、山口県の錦帯橋で行った修復工事後の観光客の入込客100万~65万人、富岡製紙工場や小樽・函館などの工場群で25万~770万人などを事例として考えると、再跳開当初が約100万人、その後毎年1%(1万人)が徐々に減衰し、約50~65万人程度が底と考えられる。
表‐1 再跳開による隅田川河口部における入込み客の推移予測
勝鬨橋の再跳開を行うにあたって重要な跳開に関係する設備の改修であるが、重要なトラニオン、鎖錠装置、跳開駆動装置、電力設備、操作盤については、一部を交換し、可能な限りオーバーホールして再使用を前提として考えると十分に再跳開可能との結論が学会報告書(「再跳開技術に関する調査研究」平成18年」)に示されている。特に、跳開部分の突桁であるが、重心位置は、閉じている時、開いている時の両方ともトラニオンシャフトにほぼ一致している。このようなことから、跳開部分が開いている時と閉じている時とでは、上部構造による地震時慣性力が橋脚やトラニオンに与える影響の違いはないはずである。また、突桁は箱断面やπ断面で構成され、ダイアフラム間隔も3.75mと比較的短い間隔で配置されており全体的な座屈が生じにくい構造である。支点上の補剛材は、開閉時の両方に対して機能するように配置されており、局部的な座屈に対しても配慮された構造であることはすばらしい。さらに、トラニオンシャフトが突桁に埋め込まれた構造となっていることから、ずれにくい構造となっている。
図-4 勝鬨橋跳開時の重心位置算定結果
また、開閉時の主構造を支持地盤に伝達する橋脚は、強固な地盤に直接届いていること、橋脚自体が基低部分(19m×38.4m)も広く、コンクリート鉄骨構造となっていることから現行の基準にあてはめても十分な支持力と耐震性能を保有していると考えられる。
次に、再跳開以降の跳開回数は、観光資源としての活用を第一に日本固有の盆正月の2回、毎月の12回、毎週の52回で計画する。勝鬨橋の跳開のみでは集客能力が少ないことから、地域の歳時イベントや江戸~東京への変遷を隅田川界隈に多く残されている事実を踏まえてテラスカフェの設置や隅田川渡し等各種イベント、水辺コンサートなどとの連携を想定すると観光資源としての価値は非常に高い。平成21年度の東京都が公表した長寿命化対策実施によって勝鬨橋を構造体として長寿命化を図れば、対策後200年程度の耐用年数となる筈である。さらに、勝鬨橋を英国・ロンドンブリッジ、米国・シカゴの可動橋群、ロシア・サンクトペテルブルク可動橋等との連携すること海外の観光客も注視し、その効果はかなりの物になる筈と考える。