平成28年1月1日の年明け一番に掲載される記事を執筆するにあたって、平成28年度が日本の大きな記念すべき転機となる1年となることを祈願して少し異なった観点から夢ある話題を提供したいと思う。
過ぎ去った平成27年度は、自動車部品大手メーカである「タカタ」のリコール事件に始まり、東洋ゴム工業免震装置のゴム性能偽装事件、北陸新幹線の融雪設備工事談合事件、沖ノ鳥島工事桟橋転覆事故、JR東日本山手線架線支柱転倒事故、新国立競技場デザイン案白紙撤回事件、道路橋耐震補強装置部材の溶接不良事件、東京五輪エンブレム無断転用事件、山陽新幹線カバー固定ボルト脱落事故、東北新幹線「はやぶさ・こまち」4層構造窓ガラスひび割れ事故、JR京浜東北線架線破断事故、フィルクスワーゲン(VW)排ガス試験不正操作事件、元請・三井住友建設及び下請け・日立ハイテクノロジーズ、孫請け・旭化成建材等による大型マンション杭基礎データ偽装事件、JR東日本・横浜線架線電柱破壊事故などインフラに関する不正や事故が数多く明らかとなり、技術者の信頼を失った1年であった。
平成27年の特徴は、今まで数多くはなかった鉄道、特に「安全神話」が確立されていた新幹線に絡む事故が数多く発生した残念な年でもある。不正や事故が起こるたびに反省の弁、今後に向けた安全対策の徹底等が繰り返し行われているが、ヒューマンエラーや倫理観不足による事件や事故は一向に減ることは無く、この主原因は我々技術者の怠慢があるのかもしれない。来る平成28年は、ここにあげた同種の事件や事故が起こり、技術者の質を問われる事態とならないことを祈るばかりである。さて、これから始まる平成28年は種々な問題が広がり、発展していく年と言われている「申年」が始まる。そこで、技術界に「かちどき」が揚がるように、隅田川河口の勝鬨橋再跳開の可能性とその効果等について私見を中心に述べたいと思う。注意をしておくが私は「勝鬨橋の再跳開」の支援者でもなく、関係した技術者としての知見によって「初夢」を述べることをご理解いただきたい。
1.まぼろしの東京オリンピック・万国博覧会と勝鬨橋
勝鬨橋と言えば隅田川の河口「まぼろしの東京万国博覧会…勝鬨橋先の埋め立て地で開催される予定であった」のメインゲートとなる筈のいわくつきの名橋である。実はその年に「まぼろしの東京オリンピック」も開催される予定であった。1931年(昭和6年)東京市議会において、1940年(昭和15年)が紀元2600年(日本書紀に記述された神武天皇即位から2600年)であること、「国民体育」としてオリンピック開催が大いに役立つこと、日本を世界の多くの人々に知ってもらう絶好の機会であるとの考えからオリンピック招致活動開始が決定されている。翌年の1932年(昭和7年)の米国・ロサンゼルスで開催されたIOC総会で正式に日本は開催地への立候補を表明、1936年(昭和11年)のドイツ・ベルリンIOC総会で1940年(昭和15年)の第12回オリンピック開催地が東京に正式決定されている。当然、国内は4年後の第12回オリンピック東京開催を成功裡に終わらせるために開催準備が始まり、メイン会場には、当時あった明治神宮外苑競技場を造り変える案や、現在の駒沢に新たに建設する案(当時あった駒沢ゴルフリンクス付近)、芝浦に水泳競技場建設する案などがあった。しかし、1937年(昭和12年)7月に起こった盧溝橋事件等が原因となって国内外から開催反対の意見が出され、最終的に日本政府は1938年(昭和13年)7月15日の閣議で、正式に辞退を決定した。なお、開催候補地の一つであったフィンランド・ヘルシンキが東京に代わってオリンピック開催地となったが、第二次世界大戦勃発によって結局開催されずに中止となったのは残念である。
もし、東京に開催地が決定したとすれば、勝鬨橋は先に示した万国博覧会及び東京オリンピックの帝都の門・メインゲートとして華々しいオープニングを飾ったに違いないと考えるのは私だけではないと思っている。
2.勝鬨橋の架橋理由、諸元と設計
勝鬨橋架橋の理由は、土木建築工事画法(1930年・岡部三郎)の記載によると築地と月島間には年間1,000万人以上の人々が利用していた「かちどきの渡し」があり、東京市は、年間15万円を投じていたとしている。渡船を使わないと隅田川上流に架かる永代橋を使用する他なく30分余を要することとなる。勝鬨橋を架橋することは、時間短縮の効果として六分の一、5~6分で対岸へ渡ることが可能となる大きな投資効果があるとしている。また、東京市が当時進めていた東京港埋め立て地の地価は、利便性の向上から予定地200万坪の地価が上昇し、10円上がれば2,000万円、50円上がれば1億円と勝鬨橋架橋事業費400万円に対し費用対効果は十分以上であるとしている。勝鬨橋の可動橋を採用した理由は、隅田川河口から永代橋の間にあった倉庫及び造船会社への通船機能を確保する必要があったことにある。このような理由によって勝鬨橋の架橋はその後の紆余曲折を経て、1933年(昭和8年)6月に着工された。
勝鬨橋の諸元は、以下である。
①橋格:一等橋
②橋長:246.0m、総幅員:26.6m
③工事着手:1933年(昭和8年)6月
④工事竣工:1940年(昭和15年)6月
⑤構造形式:上部構造 中央径間 シカゴ式固定双葉跳開橋
側径間 下路式2主構鋼タイドアーチ
下部構造 橋台 重力式(基礎 直接基礎及び木杭)
橋脚 壁式 (基礎 直接基礎)
⑥事業費:4,180,000円
図-1 勝鬨橋の構造一般図
設計者安宅勝氏の執筆した「勝鬨橋に就いて・土木学会誌 1939年12月」によると、勝鬨橋中央径間可動部分は、双葉跳開橋であることから、可動時はトラニオンシャフトを中心に開閉し、閉橋時がシヤーロック、活荷重支承、トラニオンシャフト、リアロックで支持固定された突桁として設計したとしている。特徴としては、荷重が非対称に載荷した場合の各部材、詳細構造にバランスを取るように十分配慮されている。また、可動橋であることから突桁の重心位置には特段の工夫がなされており、重心位置をトラニオンシャフトに合致させるように設計されている。他の跳開橋にない勝鬨橋の設計上の特徴は二つある。一つは、突桁を固定するシヤーロック設備であり、一般的に橋軸方向に差し込むロック構造を橋軸直角方向にしていることである。二つ目は、中央部分を連結する伸縮装置も一般的な鋼製櫛形ではなく、芋状の鋳物を双方からバネによって押し込む構造の採用である。いずれも特許上の問題等を考慮し、国内外の可動橋を調査して設計し、採用したようである。このような特徴ある構造を当時考えたのは、安宅勝氏と瀧尾達也氏である。勝鬨橋の設計にあたって、Hool&Kinn: Long Span and Movable Bridges、Hovey: Movable Bridges JOHN WILEY AND SONS Inc.、Hotopp: Bewegliche Brücken、Hawraneck: Bewegliche Brücken、Eletrical Equipment on Movable Bridges: Technical Bulletin No265 などの文献を参考にしたようである。
図-2 勝鬨橋跳開設備の配置と名称
安宅氏は、東京帝国大学・田中豊の教え子であるが、大学教員になることを望んだ安宅氏に対し田中教授は、『君は出来が悪いから東京市に行け』と命じた。その結果、勝鬨橋の設計者となり名橋が残ったことは、現代の我々技術者にとって安宅先生(後に大阪大学教授)には悪いが幸いなことであった。新たな構造や設備を設計する時に技術者としての想像力を高め、持てる技術を最大限生かすためにこのように多くの海外文献等を参考にし、ベストを尽くして「コツコツ学ぶ姿」技術者の姿は輝かしい。