目標は3年間で売上50億円達成
片平新日本技研 社長インタビュー 事業領域の拡大を推進
株式会社片平新日本技研
代表取締役社長
中村 正人 氏
海外の長大橋設計受注のために
旧新日本技研の構造設計技術を生かす
――片平グループの海外事業を担うKEIとの協力や連携はどのように行っていきますか
中村 片平グループとして新入社員を採用して、片平新日本技研で教育して海外に派遣していきます。また、旧新日本技研の高い構造設計能力を有する橋梁技術者と一緒に勉強会を開いて、(旧新日本技研の)高い橋梁技術を各種計画業務だけでなく、海外の長大橋の設計を受注できるようにしていくことも考えています。当社は歴史的にNEXCOとの関係が深く、JEXWAYなどとも連携しています。そうした強みも活かしていきたいと考えています。
また海外活動として、創立者の故片平社長がREAAA(アジア・オーストラレーシア道路技術協会)の第5期会長を務めたことから、遺言で「片平基金」をREAAAに創設しました。REAAAは、その運用利息で4年ごとに、道路工学に関する優秀技術論文に「片平賞」として賞金と賞状授与を行ってきました。しかし、金利の低い経済状況もあって、2017年は賞金額に達しなかったことから、片平グループとして支援を行い、片平賞の授与を行うことができました。アジアの若手技術者に日本の最新技術を伝えるという創立者の意志を受け継ぐためにも、片平賞の存続を図っていきたいと思います。
鶴見つばさ橋(土木学会田中賞を受賞)
短工期での事業達成がその後のマネジメントに生きる
新事業や未知のものへの挑戦を経営者として後押し
――社長に就任したのは
中村 平成20年11月です。平成23年からはKEIの役員も兼任しています。業界活動としては、社長就任前から建設コンサルタント協会本部と関東支部の理事に就いていて、現在、本部では企画副部会長、支部では総務部会長を務めています。
――初代の片平社長は内務省から建設省、日本道路公団を経て片平エンジニアリングを設立されましたが、中村社長も旧日本道路公団のご出身とお聞きしました
中村 そうです。最初に仙台建設局の工務課に配属され、その後、試験所(現NEXCO総研)の構造試験室の主任研究員となり、地震や低周波の研究を行いました。そこで6年を過ごした後、上越工事の工事長となり北陸道のチャレンジ63を担当しました。高松建設局の技術課長時代は、瀬戸大橋利用促進のため各橋建設の1年前倒しがあり、慌てました。
大阪建設局(現NEXCO西日本関西支社建設事業部)西神戸工事事務所の所長在任時は、明石海峡大橋関連道路を4年半で完成させなければならず、これもまた非常に大変でした。その後、本社の技術部調査役に就き、次いで高速道路技術センターの建設技術部長として第二東名(新東名)の地すべりやトンネル工事の技術について委員会業務を取り仕切り、平成13年に片平に入社しました。
――日本道路公団時代にはさまざまな経験をされたと思いますが、どのようなことが心に残っていますか
中村 仙台で宮城県沖地震に遭った後、試験所で地震の研究をして、そして西神戸の所長のときに阪神大震災が生じました。東日本大震災発生時はベトナムに出張中でしたが、津波の映像を見て驚きました。これが先の三陸沿岸道路事業促進PPP参画につながっています。
西神戸時代は、明石海峡大橋と同時開通を果たすため、山陽道三木JCT~神戸西ICと第二神明道路北線の計15.2kmを4年半で完成しなければなりませんでした。今までは技術が設計協議をまとめて、まとまったら用地部隊が幅杭を打って、用地交渉をしていました。それでは時間がかかるため、設計協議と同時に境界測量し、単価はあとで決めても、境界だけ決めて、設計をしました。この方式は施工区間にあった呑吐ダムにちなみ 、“呑吐方式”と名づけ、各担当者の間で合言葉としました。また、トンネル坑口は施工承諾などを先行しました。本当に嵐のような4年半でした。同区間では当時世界最大の径間長を誇ったエクストラドーズド橋である衝原橋や、土被りの薄い眼鏡トンネルで中央導杭方式を初採用した小束山トンネルなどがあります。
北上大橋(土木学会田中賞を受賞)
――技術者としてのターニングポイントは
中村 やはり西神戸時代です。日本道路公団と本四公団、阪神高速道路、建設省の関連する4所長で定例会議を行っていました。今でもその人たちとは連絡を取っています。
――西神戸時代には阪神・淡路大震災も含まれています
中村 設計協議をしている方のなかにも地震で被害に遭われた方がいました。そのなかで事業を間に合わせなければなりませんでした。初めて「社員を守りながら」どのように進めていくのかを考えました。それまでは正直言いますと、「技術」が主でした。「新しい技術をやりたい」という欲求が最優先だった。それが、社員の保護や、地震時の対応など、いろいろと対応したことで、技術者からマネジメント視点に変わる転機となりました。
事業を早く展開しなければいけないときに行うべきことや、社員の守り方、モチベーションのアップをいかに成すか、当時経験したことは社長となって役に立っています。新事業領域としてPPPに参画するといっても、初めてのことですから、多くの人は躊躇するわけです。しかし、リーダーシップを発揮して「どうしてもやる」という不退転の決意を見せれば手を挙げる人は出てきます。海外赴任も初めは、英語ができません、行ったことがありませんなどと言いますが、それは未知を恐れているだけで、実際に現地に行けば楽しいことがあるわけです。それを経営者としてどのように後押しするか、モチベーションを上げるか、これは西神戸時代の追い詰められた状況で模索したことが役に立っています。
保全の時代では新設ほどの華やかさはありませんが、保全の新しい技術や機械、積算要領や施工管理要領などの要領作成を官民あげてやれば、若い人もやる気がきっと出てくると思います。
――座右の銘は
中村 「為せば成る、為さねば成らぬ成る業を成らぬと捨つる人の儚さ」です。武田信玄の名言です。これを肝に銘じていきたいと考えています。
――ありがとうございました