1. 技術判断と復旧図作成の専門チームを作る
基本的な復旧方針が決まり、復旧工事に入るに当たりJR東日本から設計のできる人を応援に何人かほしいということで、JR東日本構造技術PTのメンバーを中心に1月23日から5~10名を継続的に1週間程度で交代しながらJR西日本に行ってもらうことにしました。
あわせて後方支援チームをJR東日本の構造技術センター内につくり、現地派遣チームの支援をしました。JR各社は、国鉄分割の際に、国鉄の過去の構造物の設計図や設計計算書のすべてのデーターを引き継いでおり,JR東日本にても、この情報検索システムにより国鉄時代の山陽新幹線や、関西の在来線の構造物の設計図や計算書も見つけることができるようになっていました。JR西日本が混乱している中で、これらの図面や計算書を探すよりも、JR東日本で探すほうが容易であったことも、この支援が効果を発揮したようです。また各種プログラムの利用も、資料や設備の整っている後方支援チームで行うほうが効果的だったようです。
復旧設計の応援に行った最初のメンバーから数日後電話があり、いろいろ検討ばかり多くて個別の構造物の復旧方針がなかなか決まらないので、復旧の具体的な設計作業に入れない、との連絡が入りました。再度、西日本に行き、JR西日本の土木の幹部と話をし、技術判断と復旧図作成を専門に行うチームをJR西日本の復旧本部と別につくってもらうことにしました。個別構造物の復旧図はその技術判断をするチームで即断して作っていくことにしました。
技術支援団ということで、私が団長になり、復旧図は、そこの副団長がサインして復旧本部に渡すということにしました。毎日、夕方に打ち合わせ、復旧本部からの依頼をうけ、それに対する回答をそのチームがやっていくということにしました。副団長は2人とし、私が指名した人に順次交代しながらしてもらうことにしました。
JR西日本コンサルタンツにいた北後さんには、はじめから復旧が終わるまで副団長を担当してもらいました。もう1人は、元構造物設計事務所のJR各社からのメンバーと、JR東日本の構造技術センターのメンバー(当時は構造技術プロジェクトチーム)に1週間程度で交代しながらしてもらいました。私自身は基本的な方針を示し、必要な時に相談に乗るのみで、個々の設計にはかかわらず、すべて団長の責任にしてよいと伝えて、判断を副団長に任せました。
JR西日本には国鉄構造物設計事務所(構設)の経験者が、鉄道総合技術研究所以外ではJR東日本に次いで多く行っていました。しかし、この当時、構設の経験者は、技術から離れ、ホテルの社長など関連会社などに多く行っており、JR西日本の中にはほとんどいない状況でした。人材をどう活用するかは、民間会社のそれぞれの方針があり、能力のある人を技術の分野よりも収入の得られる分野で活用したいというのもやむを得ないかと思います。
私も国鉄の民営分割でJR東日本に配属が決まった時に、我々の人事を担当していた先輩に、なぜ私を希望していなかった民間会社に割り振ったのですか、民間会社のJR東日本に私のような技術者が必要とされるのですか、と直接会いに行って尋ねました。
先輩は、JR東日本は技術力を維持する組織としたいので、そのために配属したのだと言われました。私の最初の配属先の組織の人事などはほぼ案が決まっていたようですが、それなら技術を重視する組織と人事に変えてよいですかと話し、私の最初の配属先の組織の人事を関係者と協議の上、だいぶ変更することにしました。
国鉄の分割直後は、どのJRでも、技術は社内で持つべきという意見と、民間会社なので人的資源に限りがあるので技術は外の力を借りればよいという意見が分かれていました。最初の人事案は後者の方針でつくられていました。JR東日本の方針は技術を社内に維持する方針だという意見に社内を最初に統一したことで、人事の変更も理解を得られました。
その後、JR東日本の会長に三井造船の技術者で経営者の山下さんが就任されました。山下さんはJRの仕事を見て、JRは技術産業なので技術を向上させないといけないといわれ、組織内での技術の向上を重視するようになりました。これも経営判断ですから、経営者が変われば、また企業の大きさが異なれば、異なる判断となるのもやむを得ないと思っています。
災害復旧で大切なことは、いろいろ検討するのでなく、技術力のある個人に少ない検討で、方針を決めてもらい、早く具体的な図面にして現場に渡して、現場を止めないことです。合格点の判断の範囲であるなら、早く決めることのほうが大切です。現場の作業員が手待ちで何もすることがないことが最悪です。そのために、合格点の判断ができる人を選んで判断者にすることが大切です。
私が選んだ副団長は設計の経験、施工の経験、資材の入手方法などの一通りの知識のある人で、決断できる人です。復旧という実務の設計は、研究者ではなく、幅広い知識と経験と、部外とのネットワークのある技術者が必要です。用いる資機材がすぐ入手できるかも、復旧計画には重要です。復旧図を作るにあたり、資機材の入手が可能かも確認しながら行うことが必要です。設計、施工の実務を知っている人でなくては早い復旧はできません。技術者個人により、作られる復旧図には違いがあるでしょうが、いずれでも致命的な間違いを犯さなければよいのです。どちらが正解などというものはないのです。
もう1つ大切なのは、復旧には経済設計などと考えて、鋼材やコンクリートの材料をケチらないことです。急いでいるので、考えが抜けていることも生じがちです。十分余裕のある設計での復旧を心がけるようにお願いしました。復旧の工事費の中で、復旧に使用する鋼材やコンクリートの材料費はごくわずかです。ほとんどは、工事用の道路や足場など工事のための準備作業です。再度同じ規模の災害で損傷を受けたり、補強を追加したりすることがないように充分耐力のゆとりを持って復旧図をつくるようにお願いしました。コンピューターを使わずに手計算の精度で十分です。
この技術支援団を作ってからは、判断は副団長に集中しているので、各人がいろいろ検討を指示するという無駄がなくなり、即断し、復旧図を作ることができることで現場が動き始めました。
誰が合格点の判断を常時することができるのかということを考えて、判断者である副団長を人選しなくてはなりません。それにはその人の技術力を良く知っていることと、技術力を評価できる能力が必要です。それができないと不安になり、誰にも任すことができなく、多くの人の意見を聞いて、という委員会方式での復旧ということになるでしょう。委員会方式とするならば、早期の復旧はあきらめたということです。誰も責任を取らないシステムで、早い復旧は無理です。早く復旧するなら、判断者を1人にしてすべてを任せて、責任は任せた人がとることです。委員会方式が適しているのは、時間をかけてもよい原因調査などです。
図-1は技術支援団に加わってもらった、JR西日本の関係者以外の人数の推移です。1月の終わりから2月いっぱいで設計は終えているので支援も2月で終えています。
図-1 技術支援に派遣されたJR各社から技術者の数
新幹線の復旧設計は、JR北海道の吉野さんに多く担当してもらいました。在来線部分はJR東日本の構造技術センター(当時は構造技術PT)のメンバーが中心に支援しました。JR東日本からは構造技術センターの八巻さんを中心に行ってもらいました。八巻さんはJR西日本コンサルタンツの北後さんとは国鉄内の大学の同期です。
また、ほかの副団長をお願いした人も、構設で一緒に勤務したこともあるメンバーと、JR東日本の構造技術PT のメンバーです。いずれも私が一緒に仕事をしたことがある人から選びました。一緒に仕事をした経験がないと、実際に任せられる人かどうかを判断するのは難しいからです。
この復旧時に、被害状況をJR東日本の幹部何人かに現地を案内しました。当時のJR東日本の社長の松田さんも案内しました。実は構造技術センターの組織を作るようにJR東日本の社内の関係者での意見がまとまった時に、新組織なので社長決裁となるのですが、どうしても社長が認めてくれませんでした。それまでに何度も、私もこのような技術の組織を作る必要性を直接社長に話していました。
そのたびに、社長が若い時に、駅舎を安くしようとしたときに構設に相談したら、そんな建築基準法違反のものはだめです、と言われたことがあり、ルールを守るだけで、知恵をださない組織はつくらないと言われていました。当時の副社長の細谷さんが、それなら社長決裁ではない臨時のプロジェクトチームとして発足したらと、土木の関係者に助言があり発足できたのでした。この地震の被害状況を社長に案内する時、再度、この応援に来ているような技術者のチームが必要ですと話しました。その結果かどうか知りませんが、その後、正式な組織となりました。
JR西日本の関係者は皆、昼夜ない状況で復旧に頑張っていました。災害地域での勤務は、JR西日本の関係者は当事者なので劣悪な環境でも緊張感が維持できるのでしょうが、他社からの支援者は被災地の環境では長くの生活は大変なので、1週間程度で入れ替わるようにしました。また、当初は支援者もJR西日本の本社での勤務でしたが、JR西日本の社員は昼夜のないような勤務状況で頑張っているので、その環境の中で一緒では大変なので、勤務場所も大阪駅から隣の新大阪駅のJR西日本コンサルタンツの場所に移してもらいました。
夜までの打ち合わせで、遅くなると時間制限で風呂に入ることもできないなどの住居環境などもあったようで、支援に行った人の生活環境を改善するなど、人を送った組織で気配りをしないと、現地に支援に行った人の負担が大きくなりすぎることになります。宿の手配も大変で、転々と宿を移りながらの技術支援ということもあったようです。送った側の組織で可能な範囲で支援するのですが、お金の面倒は見ても、宿探しなどは当事者で行わなくてはならないことも多かったようです。
2. 建設会社との工程調整で、土木工事は約1カ月で
新幹線は在来線よりも被害が少なかったことと、JR西日本のM次長が頑張っているので復旧は順調にいくだろうと思っていました。
在来線は被害も大きく、こちらのほうが大変だろうと思われました。また在来線のこの区間の不通は貨物会社にとっても大変なようで、直接貨物会社の幹部から早く復旧してほしいなどの依頼の電話がありました。
1月末に、在来線について各施工会社の現場の主任技術者などと工程の打ち合わせをしました(図-2)。
図-2 各社との工程の打ち合わせの日
特に在来線は複々線で、約2kmにわたって高架橋が壊滅的に壊れていました。復旧方法は新幹線高架橋と同様です。目標は、土木の主要工事を2月中に終えて、3月には、軌道工事と電気工事ができる状況にする方針で打ち合わせました。JR西日本のN次長と一緒に私もすべての打ち合わせに参加しました。1カ月後に軌道工事を始められる状況にするように土木工事を行うということで各社と打ち合わせました。
各社からの最初の工程ははるかに長いものでしたが、具体的な工事の方法と工期を聞き、それに対して代替方法を提案して修正してもらいました。建設会社は元の高架橋の設計がわかっていないため、ジャッキの受け台をコンクリートで造らなくてはいけないと考え、コンクリートの養生の工期をいれます。敷き鉄板でよいとの指示や、ジャッキをかける位置を柱の近くにするためには、高架下の物の撤去に時間がかかるとのことに対しては、柱のそばでなくてもよいとの指示をすることで、工期を縮め、何度かの打ち合わせで目標の工期内で可能な計画にしてもらいました。
一番大変な箇所が六甲道駅でした。ここはNHKのプロジェクトXでも紹介されていますが、2層の高架橋が2層とも壊れてしまい、同時に上下2層をジャッキアップしてもらう計画としました。また高架下には多くの店が入っており、これを最初に撤去するのにも時間がかかることから、いろいろと相互に知恵を出し合いました。ここの現場の復旧工程の会議が最も多く行われました。
既設構造物を使って直すのは新たに造るものが少ないので、資機材が少なく済み、有利なのですが、工期を縮めるには、施工技術だけでなく既設構造物の設計を熟知していないと、短い工程での復旧計画はできません。設計と施工の知識のある人の共同作業がどうしても必要です。土木工事の最初の各社からの半年近くの工期を、工夫して、ほぼ1カ月後には、軌道、電気の工事が並行作業でできるようにし、すべての工事も2カ月以内に終わるまで縮まりました。