新年、あけましておめでとうございます。前回は8月31日でしたので、約半年ぶりとなります。
年末・年始は皆様いかが過ごされたでしょうか。この時期は新型コロナウイルスの新規感染者数が低い水準であったため、久しぶりに会われた方や、初詣等に出かけられた方も多かったと思います。北海道や日本海側などでは豪雪やそれに伴う道路の通行止め等が生じており、対応された方々、ご苦労様でした。
さて、新年ですので、日本を代表する二つの神社である伊勢神宮と出雲大社について、道路構造物の視点から紹介します。
1.伊勢神宮の式年遷宮
連載第1回で紹介しました土木研究所基礎研究室での勤務の後、国土庁、独法土木研究所、中部地方整備局沼津河川国道事務所を経て、平成18年7月から平成20年3月までの間、三重県庁で勤務しました。県土整備部の道路政策担当の総括室長として、県が実施する道路事業の他、国土交通省や高速道路会社の事業推進のための業務を行いました。その当時は、平成25年の伊勢神宮の御遷宮に向けて、「命の道」としての高速道路を熊野まで開通させようと、関係者一丸となって取り組んでいたところです。
【伊勢神宮】
ここで、伊勢神宮の御遷宮についての基礎情報を紹介しておきます。
伊勢神宮は、三重県伊勢市にあり、皇室の氏神である天照大神が祀られています。20年(式年)毎に内宮、外宮の正殿のみならず別宮の正殿や宝殿、鳥居など全ての社殿が新しく作り替えられます。装飾や宝物、調度品の他、宇治橋も架け替えられます。毎朝太陽が新しく昇るように、「常若」の考えで、全てのものが更新されているのです。この式年遷宮は飛鳥時代の天武天皇が定め、690年に第1回が行われました。途中で中断や延期はあったものの、前回第62回遷宮まで1300年以上継続しています。
写真-1 伊勢神宮宇治橋(伊勢志摩観光コンベンション機構公式サイトより)
【式年遷宮と交通基盤整備】
伊勢神宮は道路にとっても縁が深く、大正9年施行の道路法に基づき指定された国道1号は、「東京市ヨリ神宮ニ達スル路線」とし、終点が伊勢神宮とされています。私が三重県在籍当時には平成25年(2013年)の第62回御遷宮に向けて、熊野までの高規格幹線道路の整備が中日本高速道路株式会社、および、国土交通省中部地方整備局紀勢国道事務所により進められていました。その前の第61回御遷宮の1993年(平成5年)には、伊勢自動車道(伊勢関インターチェンジ~伊勢インターチェンジ)が全線開通しています。その前の第60回1973年(昭和48年)には国道23号の「南勢バイパス」が、さらに前の第59回1953年(昭和28年)には「参宮有料道路」が建設されています。それより以前は、交通手段としては鉄道ですので、第58回1929年(昭和4年)の翌年1930年には近鉄の前身である参宮急行電鉄の山田駅への乗り入れ、伊勢電気鉄道の大神宮前駅の設置が行われ、第57回1909年(明治42年)には参宮鉄道の複線化工事が行われています。このように、20年ごとの大行事に合わせ参拝者の便を図る交通の整備が進められています。
表―1 近年の伊勢神宮式年遷宮と交通基盤整備
【技術継承とイベント】
事業の進め方から学ぶべき事項も多くあります。伊勢神宮は20年毎に同じ事が繰り返されており、技術の継承の点からも有効です。また、正殿のみでなく他の宮も逐次建て替えていくため、仕事が切れ目無く続いていきます。さて、国総研では、道路橋の技術基準類の改正作業を行っています。道路橋示方書としては概ね10年毎に大改正を行い、その間の5年で小改正を行います。基準の改正にともなって、それを補完する便覧の改訂作業も行います。これらの改正作業を継続的に行うことにより、民間の方々も含めて技術基準類の改正という、技術が継承されてきています。基準類の改正・改訂には大変な労力をかけることとなりますが、技術の継承手段として重要な取り組みと捉えています。私自身も、最初は委員会の隅で議事録作成や読み合わせ、印刷校正から始まり、次第に改正原案の執筆、委員会運営や関係者への説明等、色々な経験を積むことが出来ました。
イベントとしてもよく考えられています。私が家族とともに参加したお木曳(写真-2)は、平成19年であり、25年の御遷宮の6年も前です。この当時から御遷宮に向けた行事で多くの観光客が訪れ、地域がわいていました。単に20年に1回のイベントではなく、時間的にも切れ目無く行事が続いています。レジャー施設にリピーターを呼ぶためにはアトラクションを定期的に新しくしていくことが求められるといいますが、まさにそのような仕掛けが施されています。
写真-2 伊勢神宮でのお木曳き 写真-3 伊勢神宮内宮(国土地理院航空写真)
【古殿地と橋詰め広場】
さて、道路橋においても、全ての橋梁を使い続けるのではなく、社会的に影響が小さい小規模橋梁は計画的に架け替えるという自治体もあります。架け替える際にはその作業空間が必要となります。伊勢神宮を参拝された方はお気づきのように、御神殿ではその横に全く同じ寸法の空間が確保されています(写真-3)。古殿地と呼ばれます。橋においてこのような空間を確保することは困難かもしれませんが、江戸時代の橋では技術的制約等から橋詰め広場が設けられていました。
図-1の江戸名所図会日本橋では、橋詰め広場の様子も描かれています。図の左側の橋詰めには高札場や番屋が描かれ、右側の橋詰めには火の見櫓や半鐘も描かれています。露店も並んでおり、人が集まる空間でもあった様子がうかがえます。その橋詰めも時代によって姿を変えてきましたが、関東大震災の震災復興計画で橋詰め広場が位置づけられています。広場の大きさとして、取り付け道路の幅員の1/2ずつの広さの橋詰め空間を両側に確保するよう規定され、交番、トイレ、撒水ポンプの格納庫が配置されていました。その後これらの機能は他の空間で代替されたことから、1958年に制定された道路構造令では橋詰め広場は規定されていません。橋詰めの空間は維持管理や更新の際に利用することができ、また、平時は賑わい空間や防災拠点としての活用が期待できます。用地の制約はあるでしょうが、一考に値するのではないでしょうか。
図-1 江戸名所図会 日本橋
なお、20年ごとに全てを更新する式年遷宮は、資源の無駄遣いのように見えかねません。実際には、式年遷宮の際に解体された御用材は、神宮内や各地の神社の造営で再利用されるそうです。内宮正殿の棟持柱は、宇治橋神宮側の鳥居となり、さらに、その後は関の東の追分の鳥居となるそうです。細工が可能な木材ならではの仕組みです。私が平成19年に運んだ柱は現在どこで使われていて、今後どこで使われていくのでしょうか。楽しみです。