(1)はじめに
テレビの「半沢直樹」の視聴率が絶好調である。メガバンクの行員が銀行内外の不正を次々と暴き役員だろうが、上司だろうが、とことんやっつける、実に面白い。この中に出てくる財務省出身で金融庁の統括検査官や証券等取引監視委員会の統括検査官である黒崎。彼は所謂銀行の会計検査院調査官である。金融庁の検査は、銀行等に立入検査に入り、経営内容の検査や不良債権(不正融資)の有無をチェックし、重大な違反が見つかれば「業務停止命令」等の厳しい処分が下す。この番組を見ていて、「会計検査が黒崎氏のようにやられていたら」どれだけ税金が有効に使われることだろう、と思った人は多いと思う。もう一つ、「組織が腐らないために必要な三箇条」を半沢が部下の森山調査役(賀来賢人)に言った。
☆正しいことを正しいと言えること
☆組織の常識と世間の常識が一致していること
☆誠実に働いた者がきちんと評価されること
仕事は客の為に、世間の為に。自分の為ではなく。
こういう夢のような組織は皆無であろう。私自身、そういう会社を知らない。私も至る所で半沢流に言いまくってきた。
今回は趣向を変えて、「会計検査の重要性」について経験談を紹介する。
(2)会計検査との出会い
公団(現道路会社)では定期的に会計検査がやってくる。「会計検査が来る」と聞くと若い頃は「嫌だなあ」というのが実感であった。これまで本四公団(会社)、関空会社、阪神高速道路等、で会計検査の対応をしたが、凡そ1週間べったりでお付き合いすることが多かった。歳と共に場慣れしたせいなのか20代後半からは全然嫌でもなくなった。社会人1年目、大鳴門橋を建設する本四公団鳴門工事事務所において初めて会計検査の対応をした。最初は上司の後ろに控えていて説明資料の準備をするくらいであった。1970年台後半、「門崎の3億円事件(違算)」が発生した。淡路島南端の尖った半島(写真-1参照)に沿って作られた門崎高架橋下部工工事での違算である。掘削の単価を1桁間違えたのである。正真正銘の単純ミスだから言い逃れは出来ない。これを見つけたのが当時のN調査官で、機械屋さんではあるが、土木に非常に精通されていた。この調査官とは20代後半までお付き合いすることになった。
会計検査とは、国費(税金や国債発行によるお金)が投入された事業をチェックするもので、対象は国のすべての会計、国が出資している政府関係機関、独立行政法人などの法人や国が補助金、貸付金その他の財政援助をしている都道府県、市町村、各種団体、である。
(3)大鳴門橋(塔・ケーブル等工事)での会計検査
最初の仕事は、当時主流であった製作工事JVに架設工事を随意契約する工事で、「大鳴門橋塔架設工事」。当時の仕事のやり方は、基本設計つまり工事発注用設計迄を建設局で、その後の工事発注(設計書作成)、詳細設計及び工事監督を工事区で行うものである。受験時に幸いしたのは、吊橋の施工歩掛が十分に整備(公表)されていないことだった。日本の長大吊橋の歴史は、若戸大橋・関門橋(いずれも日本道路公団)、因島大橋・大鳴門橋・瀬戸大橋(本四公団)へと続く。吊橋自体が単品生産方式で標準的な積算歩掛りは無かった。架設歩掛りといえば、橋梁架設工事の積算((一社)日本建設機械施工協会)であった。業界用語で1:6:1(イチロクイチ)。つまり、橋梁架設の基本労務編成が、橋梁世話役1人、橋梁特殊工(橋梁専門の鳶さん)6人、普通作業員1人、というものである。後は、クリーパークレーンやクライミングクレーンでの架設、高力ボルト締めの施工日数を積み上げて設計書を作成することになる。例えば、主塔の水平継ぎ手の高力ボルト本数が多い場合、1日での作業が終わらなくなる。そうすると2編成に増やすことになる。片側塔柱の狭い足場と塔内面側に2編成・16人が配置される。これが所謂、不合理な積算となる。合理的に足場に配置出来る人数で積算すると作業日数が長くなる。作業日数が長くなれば架設機械の損料も増える。労務費を倍に増やしてでも日数を短くする方がトータル的には経済的な積算となる。今から思えば、関門橋で高力ボルト締めの歩掛(1日当たりの施工本数)が設定されていたとしたら非常に経済的な積算になっていたであろう。当時会計検査が終わるたびに言ったものだ。「実績歩掛が無くて良かった」。同じ本四公団の因島大橋は大鳴門橋より先行して工事が行われていたが、実績はまだ整理されていないということで会計検査院の内諾をもらっていたようだ(写真-2参照)。
(4)瀬戸大橋岡山側陸上部での会計検査
1983年、岡山の第二建設局設計課で主として「瀬戸大橋 与島橋」(当時、併用トラス橋では世界一)という道路・鉄道併用橋の基本設計(工事発注用設計)を担当した。工事発注用設計を本社の理事に説明して承認が得られれば担当工事長に引き継いで、その後、担当工事長が積算・発注・詳細設計・工事監督となる。当時は、そのまま与島橋を担当する工事区へ異動すると私も工事長も思っていた。しかし、建設部長に呼ばれ「倉敷工事事務所に行ってくれ」と。要は「瀬戸大橋開通のクリティカルパスになっている倉敷工事事務所を助けてくれ」ということだった。ネックになっているのは「倉敷市稗田地区」という本四道路の建設に徹底抗戦をしているところで、この地区は陸上部特殊橋梁、トンネル、土工(7段切土)と工種のオンパレードであった。「工程短縮の為なら何でもやっていい、任せた」と。そこで4年半の激務が始まる。
①大型移動支保工による岸ノ上高架橋(写真-3参照)
1983年10月から瀬戸大橋供用開始の1988年4月10日迄の僅か4年6カ月で土質調査、地元説明、計画設計、基本設計、工事発注及び下部工・上部工施工と担当することとなる。稗田地区には「本四道路対策協議会」が組織されており、協議会会長が国会にまでルート変更や高架道路のシェルター化を陳情していた。当時の工事実施計画では、稗田地区の「御前道高架橋」は5径間連続PC箱桁橋、終点側の「岸ノ上高架橋」は、多径間連続合成I桁橋となっていた。着任後、御前道高架橋については地元交渉を重ねつつ、高架下の公園化をすることを前提に4径間PCラーメン箱桁橋に変更した(工期短縮・工費節減)。また、岸ノ上高架橋については、大型移動支保工によるPC(5+4)径間連続二~三主版桁橋に変更した(工期短縮・工費節減)(図-1参照)。この両橋共にN調査官の検査を受けることとなる。御前道高架橋・岸ノ上高架橋共に設計から積算、地元説明までを全て自分で担当していることもあり何一つ指摘は無かった。
岸ノ上高架橋は、大型移動支保工工法であり、積算の参考となるのが「橋梁架設工事の積算」((一社)日本建設機械施工協会)である。大型移動支保工工法には図-2に示す通り2種類がある。一つは、型枠を吊り上げるハンガータイプ、もう一つは、型枠を下から支えるサポートタイプである。ハンガータイプは、建設省宿院高架橋で採用されたように小支間長の連続中空床版橋などに適しているが、橋脚通過時に苦労する。また、サポートタイプは、型枠を支保工桁で支えることから、橋脚形状の変更が必要になる場合がある。岸ノ上高架橋で採用したサポートタイプ(ストラバーグ可動支保工)は、PC2~3主版桁橋では橋脚の形状を変えることなく支保工桁を床版直下に配置出来、施工が非常に簡単である。積算で重要なのは、想定する大型移動支保工の重量である。ハンガータイプ、サポートタイプの設計検討を行うとともに道路公団、阪神公団の同種移動支保工工法の現場を再三視察に行ったのが懐かしい。
この工法の特色は、1径間(施工ブロック長は、47m)を16日サイクルで施工出来ることで、橋長351m、上下線を僅か14カ月で施工完了した。