本文を書き始める前に昨年9月にご逝去されました吉田巌様に心からお悔やみ申し上げます。道路構造物ジャーナルNETの井手迫さんから吉田巌様の訃報を聞き非常にびっくりしました。井手迫さんから追悼の記事をというお願いがあり、過去の記憶を辿りながら短い文章ではありますが書かせて頂きます。
吉田巌様は建設省に入省され、長崎県の西海橋、福岡県の若戸大橋の設計施工に携われ、その後、土木研究所に戻られ本四架橋の基礎調査を担当されました。その後、初代基礎研究室長となられ、日本の数多の橋梁の基礎の設計・施工の指導をされました。
昭和45年の本四公団発足と同時に設計三課長として本四橋の基礎の設計・施工を担当されました。その後、設計部長、工務部長を歴任され、私が公団に入社した昭和54年からは瀬戸大橋の局長に。その後、本社の参与・理事と務められ、瀬戸大橋開通時の1988年時に退職され、本四公団子会社の社長に就任されました。その後、1996年に吉田デザインコーナー会長に。
以上、述べましたように国内の長大橋の黎明期に燦然たる実績を残されています。
私は、本四公団においてはほとんどが上部工(海から上の部分)の担当であり、基礎工の大家である吉田巌様とはあまり接点がありません。たまたま接点があった3場面について簡単にご紹介します。
ひとつ目は、私が瀬戸大橋の設計を担当する設計課に異動した1982年当時、吉田巌様が瀬戸大橋の建設を担当する第二建設局長をされている時のことです。
昔は、局(第一建設局は神戸淡路鳴門道担当、第二建設局は瀬戸大橋担当、第三建設局はしまなみ海道担当)の設計課で海峡部の基本設計を行っていました。所謂、設計条件と工事発注用設計まで行います。
次に、本社の部長(設計部と工務部)説明、理事(副総裁以下の理事・参与)説明を経て、現場を手掛ける工事長に引き渡します。昔ですから、詳細設計付きの製作工事の積算と発注手続き、その後の随契による架設工事の発注、現場監督を工事長が行います。
この一連の仕事のスタート段階で局長説明をするわけですが、会議の後、18時過ぎから局長室で懇親会を行います。若手の私たちは飲み物やおつまみを調達します。当時の吉田局長は50代中盤。よく喋られるし、よく飲まれました。なかなか、こういう局長にはその後出会えませんでした。
局長時代は春とか秋のシーズンに入ると、有志で大山登山等に出かけます。当然の事ながら、前日夕方までに車の相乗りで大山寺界隈の民宿に集合します。吉田局長は、別ルートで来ます。当時、設計課のS代理と弥次喜多道中ここにあり、と言わんばかりに釣り竿を引っ提げて中国山地の渓流釣りに出かけます。この二人、仕事では上・下関係で縛られていますが、釣りとなると一気に立場が逆転します。釣りの師匠のS代理に怒られながら渓流を奥へ奥へと進みます。この一連の話を夜の民宿で話題にして飲みます。
岩魚の釣果はやはり師匠がダントツです。「局長が釣れない(下手)なのは一回逃がした魚(岩魚)をまた同じところで狙うからだ」とS代理が仰ってました。師匠に怒られてもニコニコして聞いて、新たな質問を投げかけるのが吉田局長らしいところでした。
ふたつ目です。今から20年ほど前の2000年頃。明石海峡大橋、来島海峡大橋も完成し、当時の長大橋センター(旧設計部)で伊勢湾口大橋プロジェクト(伊良湖水道を渡り、伊勢志摩まで)と下部工基礎の技術検討を担当していた時の話です。
東京湾口(浦賀水道大橋)、伊勢湾口(伊良湖水道大橋)、紀淡海峡(紀淡海峡大橋)、豊予海峡(豊予海峡大橋)、第二関門橋及び三県(長崎~熊本~鹿児島)架橋の基礎工の技術検討です。技術的な検討を本四公団で実施したわけですが、ある機会があって当時の吉田デザインコーナー会長に御意見を伺えることになりました。
どの海峡横断道路プロジェクトも基礎が難しい。水深が深い、潮流が速い、地盤が悪い、等、それぞれに幾つもの課題がありました。また、当時の国からの注文で明石海峡大橋の3割~5割の単価でなければ事業は動かないと。例えば、紀淡海峡の地盤が柔らかい主塔基礎にハイブリッドケーソン基礎、つまり、薄肉低反力型基礎(図-1参照)を提案。ドライドックで製作したRCケーソンの上に鋼殻ケーソンをドッキングしたもので、内部にコンクリートは充填せず、海水を注入。基礎重量の低減により慣性力を低減し、地震に対して強い基礎です。
例えば、東京湾口ではハイブリッドケーソン基礎(RCケーソンと鋼製橋脚)とパイルドファウンデーション基礎の提案。東京湾直下に存在する活断層が動くと従来の耐震設計法では設計ができない。どうするか。ギリシャのリオン・アンテリオン橋の基礎と同様な滑る基礎を提案しました(図-2参照)。つまり、架橋地点付近の断層変位により主塔基礎が相対変位を起こした場合、主塔基礎は砕石地盤の上を滑るという発想です。これを「パイルドファウンデーション基礎」と言います。施工は、基礎直下の比較的柔らかい地盤補強を行います。補強には鋼管杭を打設します。その上に砕石マウンドを築造します。その上にRCケーソン+鋼製橋脚を施工します。
図-2 パイルドファウンデーション基礎(リオン・アンテリオン橋の事例)
また、紀淡海峡大橋では、自然環境を乱さない(オオタカの繁殖地)、地形改変を大きくしない、コスト縮減という観点から吊橋アンカレイジ基礎に「連壁弾性体基礎」を提案しました。一般の連壁基礎は「連壁剛体基礎」です。何が違うか。連壁剛体基礎は、基礎自体が閉合しています。柱列式基礎を直角方向に閉じることで基礎の剛性を高めるようにしています。連壁弾性体基礎は、柱列式基礎を閉合しません。吊橋ケーブルからの水平張力は、連壁と地盤のせん断力で支持します。一方、鉛直力は連壁と地盤の摩擦支持力で支持します。
これらの設計法は当時の示方書や設計基準を大きく逸脱はしていませんが、基本的に踏襲していません。当時の国からの受託費の中で解析法を中心に議論したものです。
これを説明した後に吉田会長は丁寧にご指導下さいました。「いい発想だから頑張れ、事業着手まではかなり時間がある。引き続き、課題の解決に向け着実に歩を進めよ」と。正に、西海橋、若戸大橋、本四架橋等、これまでの発想を覆すような巨大構造物を自ら実現され、あるいは指導された方だから言葉に非常に重みがあります。この海峡横断道路プロジェクト構想も2002年度末、第12次5箇年計画でストップしました。しかし、いずれの時代にか、再度復活の可能性もあります。
最後に、来島海峡大橋の基礎に関することです。瀬戸大橋開通日(1988年4月10日)付で岡山から今治に異動しました。来島海峡大橋の計画の為です。私の担当は、吊橋上部工の設計計画ですが、基礎の最低必要寸法を下部工担当課に提示する必要があります。
来島海峡大橋は、世界初の3連吊橋で、その中でも第二、第三大橋は中央支間長1,000m級です。なおかつ、国際航路が指定されています。さらに急潮流でも有名で、その中でも一番厄介なのが、第二大橋5P基礎です。渦潮や湧潮が発生し、設置ケーソン工法(本四の海中基礎で一般的な工法)には不向きです。
地質調査と基礎の施工計画を担当していたスーパーゼネンコンO社、中堅ゼネコンK社は、上部工から求まる基礎の必要寸法から矩形形状の基礎を提案し、基礎工の設計・施工検討を実施していました。一方で、南北備讃瀬戸大橋の下部工の所長をされていたスーパーゼネコンK社の方が新居浜に一人駐在の出張所を作り、ほとんど毎週のように今治の私の執務室に来られます。何をされていたか。今だから言います。独自に、自社の調布にある技術研究所で基礎形状に関する水理実験をされていました。渦潮、湧潮が発生し、複雑な潮流でしかも流速が早い5Pに設置可能な基礎形状は何か。スーパーゼネコンK社の提案する円形基礎が最適と判明しました(図-3参照)。
当時、本四公団を退職され(財)K調査会に本四公団から移られていた杉田さん(1993年没)の指導・協力があったようです。この方は、瀬戸大橋建設時、坂出工事事務所の所長として自ら50m以上の海底に潜水し、設置ケーソン設置岩盤の確認を行われた高名な方です。最終的には来島海峡大橋で最も難しい基礎である5P(来島海峡第二大橋)は、スーパーゼネコンKとスーパーゼネコンTが受注しています。
私の40数年の技術者人生(おこがましいですが)で基礎の大先生は、吉田巌様、杉田様、塩井様です。
吉田巌様のご冥福をお祈りするとともに、塩井先生、今後ともご指導、よろしくお願い致します。あわせて優秀な基礎技術者を後世に残してください。
(2020年3月1日掲載、次回は4月1日に掲載予定です)