道路構造物ジャーナルNET

見たくないものも見る 土研 西川和廣理事長インタビュー

2020年新春インタビュー 平成の橋を回顧し、令和時代に診断AIを目指す

国立研究開発法人土木研究所
理事長

西川 和廣

公開日:2020.01.01

 本年の正月は、元号が変わって初の正月である。もとより構造物にとっては、年は刻むもので元号の変化など関係はないが、作る人にとっては、一つの時代を刻む目安となるものである。昭和、平成をインハウスエンジニアの橋梁の第一人者として駆け抜け、今また橋梁の維持管理の最前線に立ち、さらには診断AIにも取り組む国立研究開発法人土木研究所(土研)の西川和廣理事長に例年通り、年頭インタビューを行い、平成時代の回顧と令和時代の取り組みについて語っていただいた。(井手迫瑞樹)

酒田での塩害との出会い
 PCはメンテナンスフリーではなかった

 ――橋梁について平成時代を振り返り、令和の時代の展望を伺いたく思うのですが
 西川理事長 平成元年は東北地方建設局の酒田工事事務所長に就任した年でした。2年間所長を務め、平成3年から平成13年まで、国総研と土研が分かれるまで10年間橋梁研究室長を務めました。橋の研究はそこまでです。その後は企画、管理部門に異動して、平成24年までは、業務として橋に関係することができなかったので私にとっては暗黒時代でした(笑)。首都高で疲労亀裂が発生した、鋼床版に穴があいた、アメリカでトラス橋が落ちた――そういう時に呼ばれるだけで、それ以外の橋の仕事はできませんでした。そういうことで、皆さんは私が何でも知っていると思われますが、平成時代に造っている橋梁の詳細はあまり知りません。
 平成24年に国総研を辞めた後、橋梁調査会に約2年半いて、ひさしぶりに橋梁の診断の仕事をさせてもらいました。その後、土木研究センターに少しいて、土研の理事長になり、CAESARのセンター長を兼務することになったので、最後の仕事として、維持管理の仕事の集大成をしなければならないと強く感じています。
 土研の理事長に着任したときは示方書改訂の最盛期だったので、一年後、満を持してCAESARを本来の維持管理の総本山にしようとしたら、真の意味での橋梁の維持管理の専門家がいないことに気がつきました。そもそも維持管理の専門家は日本中探してもわずかしかいないのです。皆、設計のことは知っているので、事故や災害があると、示方書からどのくらい外れているかを見に行っているのがほとんどです。維持管理では橋が病気になっているわけです。その病気について包括的に勉強していなかったことが、改めてわかりましたので、いま必死に取り組んでいます。
 大学時代は鋼構造が専門で、運良く土研に入ってからも、研究員時代は鋼橋担当になり、耐候性鋼材の橋梁への適用にもかかわっていました。それが酒田工事事務所に行って、初めて出会ったコンクリート橋が15橋のPC塩害橋でした。それまでも維持管理に興味はありましたが、完全に意識がそちらに向きました


耐候性鋼材橋の損傷状況(左は伸縮装置背面からの漏水か?/右はスラブドレンの接続不良)
RST(イオン透過抵抗測定)法による腐食部位の特定やレーザー照射による有害錆と塩分の除去を開発中

 当時、コンクリート橋はメンテナンスフリーと言われていました。私も鋼橋でもメンテナンスフリーに近いものを目指して、耐候性鋼材や長持ちする被覆工法(めっきや亜鉛アルミ溶射など)に取り組んでいました。そのようななかで、PC橋の塩害です。メンテナンスフリーでないことを知り、PCの対策にも取り組み、耐久性に気をつかうようになりました。グラウトの問題もその頃からありました。酒田時代の2年間で塩害対策は生易しいものではないと意識を持ち、土研に戻ってきました。土研の10年間は本当にいろいろなことを行いました。


亜鉛めっき橋も物色(国道17号新温井川橋)

酒田工事管内のPC橋の損傷状況

橋の内外価格差に取り組む
 鋼2主鈑桁の取り組みを応援

 ――10年間は長く感じますが
 西川 それが普通です。最初の上司だった佐伯(彰一)さんも10年間務めました。直接はお会いしていませんが、国広(哲男)さんもそうでした。10年務めて、ひと時代です。土木研究所の多くの研究室長の任期は同じようなもので、行政のように2年では時代はつくれません。
 ――室長時代の10年間で印象に残っていることは
 西川 最初の取り組みは、現在でいう生産性向上で、当時は内外価格差と言われていたものでした。公共事業批判が起こり始めて、日本の公共事業は高い、特に橋は鋼橋、コンクリート橋ともに高いという声があがり、現在の生産性向上のような研究に従事しました。
 鋼橋は示方書がいろいろと変わりましたが、その頃からCCDカメラなどが出てきたので、横河が始めたのですが、部材を計測して、仮組検査を省略できるように示方書を変更しました。また、鋼材の品質が非常に良くなってきましたので、厚さの最大値を50mmから100mmにあげました。実は、その需要もありました。当時は、土研と道路公団でうまくタッグを組んでいました。道路公団もコストを下げなければならず、さまざまなタイプに挑戦しており、現在でいう2主鈑桁――少主桁にも先輩方から批判を受けるのを土研が応援して、道路公団が進めました。


2主鈑桁(日本橋梁建設協会『新しい鋼橋の誕生』より抜粋)

 ――2主鈑桁は土研が応援していたのですか
 西川 そうです。主桁間隔が広くなって、当時の通説とは反対向きでしたが、PC床版は土研の輪荷重試験でも非常に強いことを確認しましたし、その研究成果により、なぜ強くなるかを説明できるようになりました。少主桁にするとひとつの桁が大きくなり輸送が難しくなるので、桁高を3m以内に抑えるためにできるだけ厚いフランジとしたかったのです。できれば現場溶接も、もっと行いたかった。道路公団は(少主桁橋を)現場に実現してコストを縮減することに邁進し、土研が理にかなっていることを実験で証明し、示方書も後からですけど変えていきました。そのような良い連携ができていて、橋の姿が以前と比べてずいぶん変わったと思います。
 当時は、材料コストがどんどん下がる一方で人件費が高くなってきましたので、「省人化」がキーワードでした。安い鋼材をふんだんに使用して、人手を減らす方向でした。私が社会人になる前の昭和40年代ぐらいまでは鋼材の費用が鋼橋全体の5割近くになっていました。それが、室長に就任した時は2割を切っていました。

プレキャストセグメントの接合部の実験も行う
 床版で松井繁之教授と連携 輪荷重走行試験機を導入

 ――なぜですか
 西川 鋼材が安くなって、人件費が上がったからです。当時の人件費の高騰は現在の中国のようでした。鋼材を減らすよりも人手を減らしたほうがはるかに安くなるということで、ボルト継手の間の桁断面は一切変えないように、できるだけ溶接を減らそうという方向にしました。そのため、積算基準も変えました。副作用としては、大学の鋼橋の先生の仕事がなくなってしまいました。多くの先生方は1kgでも軽くする研究ばかりやっていて、それよりも人手のかからない橋のことを考えてくれればよかったのですが、誰も研究してくれませんでした。
 現在、生産性向上が進められていますが、私にとっては今頃になって何をやるの、あらかたやりましたよ、という感じです。
 ――いつ頃の話ですか
 西川 90年代初頭です。
 ――まだ明石海峡大橋が施工中の頃ですね
 西川 橋梁室長になってからはコンクリート橋も均等に見ていました。プレキャストセグメントも始まっていましたので、その接合部の実験を行い、安心して使えるようにしました。PCコンポ橋は土研との共同研究で我々の提案が活かされて製品になっています。
 もうひとつが床版です。鋼橋の合成桁について、すぐに穴があくような床版を本体として扱うのはだめだということで先輩方が禁止してしまいました。それは未だに亡霊のように残っています。
 私が危機感を感じたのは、床版が信頼性を失っていることで鋼橋の発展が完全に止まっていたことです。外国を見ると、アメリカでは床版は消耗品という感覚を持っていますが、ヨーロッパでは床版を一生ものとして使って、さまざまな橋が生まれてきています。合成構造も当たり前で、そのかわり防水層はかなり早くから施工していました。そのようなこともあり、床版に真剣に取り組まないとだめだと思いました。
 室長になる前に、道路公団、土研、大阪大学の松井先生で(緩やかな)共同研究を行っていて、分かったことは床版が壊れるのは輪荷重が動くことに起因するということでした。鉄道橋の疲労も動くことが影響していますが、道路橋は前後だけでなく、走行位置が左右にも動きます。輪荷重が動く実験をしなければ現場を再現できないことがわかってきたけれど、松井先生だけが細々と(失礼)実験を続けている状況でした。
 室長になって、松井先生を阪大の研究室に訪ねて、「今までのノウハウを全て提供して下さい」と頭を下げました。本気を示すため、土研に輪荷重試験機を2台つくりました。そうすると道路公団も富士(施工総研)につくり、ショーボンド建設もつくばに新設した研究所につくりました。
 みんなで同じ実験を行っても仕方がないので、松井先生を座長にして輪荷重走行試験連絡会を立ち上げました。さらに土木学会の鋼構造委員会の幹事でもありましたので、鋼構造委員会のなかにコンクリート床版小委員会をつくり、松井先生に委員長をお願いしました。委員会には、なぜ鋼構造委員会でコンクリート床版をやるのかと怒られました。しかし、鋼橋の床版の大半がコンクリート床版で、合成桁もそうであり、床版をつくって初めて橋になると説得して、認めさせました。
 ――説得は大変でしたか
 西川 そうでもありませんでした。
 ただ、すぐに終わるかと思ったら、大委員会になって、今でも続いていることには床版の持つ意味の重さを感じています。
 土研の輪荷重試験機も5年か10年で疲労損傷の研究がひと通り終わると考えて設置しました。しかし、未だに頻繁に使用していて、とうとう載荷フレームに疲労クラックが発生して、現在、補修中です。25年も使うとは思っていなかったからですね。阪神高速のUFC床版も土研で実験を行いました。ありがたいことに、私が時間を節約するために階段型の載荷試験を編み出したら皆が認めてくれて事実上の標準試験法になりました。階段型の載荷試験で相対的にRC床版以上の寿命があれば良いことになり、色々な床版を開発できるようになりました。土研が一番やるべき仕事ができたと感じています。
 ――そのような試験をやることよって、合成桁も使えるようになったとお考えですか
 西川 私は自信をもって薦められるようになりましたし、PC床版も非常に強いことがわかりました。橋建協推薦の合成床版も共同研究を行っていますし、炭素繊維を用いた補強も私のアイデアで進めたら、実際にすごく効果があることがわかり、これも標準となりました。
 ――炭素繊維補強は下部工、それとも床版に対するものですか
 西川 床版です。下部工は土研が手一杯だったので東工大の川島先生にお願いしました。当時、炭素繊維はゴルフクラブくらいにしか使われていなかったので、結果的に私が一番炭素繊維の建設分野への売上に貢献したのではないでしょうか(笑)。炭素繊維はヤング係数が高すぎて、鉄筋の形にすると付着強度が足りなくなります。広げてシートにすると表面積が大きくなり、効果が出るという発想で使いました。同じ理由で重ねすぎるとよくなくて、2枚重ねくらいが一番強かったですね。
 思いつくことを次々と行って、かなりヒットしました。

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